読書逍遥第150回 『地球曼荼羅 世紀末を歩く』森本哲郎著(その3)
『地球曼荼羅 世紀末を歩く』森本哲郎著(その3)
「曼荼羅(マンダラ)」という世界像
人はそれぞれ自分の力で「曼荼羅」という世界像(イマゴ・ムンディ)を描きながら生きている。
では「私の世界」とはどのような「曼荼羅」を?
☆☆☆
「人の世界と私の世界」より抜粋
私たちは「世界」という言葉を気軽に使っている。
確かに世界は私たちの前にある。私の足元から無限の彼方まで広がっている。いや、全てが世界なのであり、私たちはその世界に生きているのだ。
思えば、「世界」とはなんと恐ろしい言葉、なんと気の遠くなるほど深い意味を秘めた呪文であろうか!
人間はそのような世界に生きており、絶えず世界を意識しながら、世界のイメージをそれぞれに作り上げているのである。なんともまぁ気楽に。
確かに、人間などいなくても、世界はそれなりに存在するだろう。しかし、人間がいなければ、少なくとも人間の世界はない。
我が身に即して言うなら、私のいなくても世界はあるが、少なくとも私の世界はありえない。
とすれば、世界とは人間にとっての世界があり、私にとっての世界があればこそ、初めて意味を持つのだと言える。
だから、ヴィトゲンシュタインはこう考えた。
ーー私の言葉の限界が、私の世界の限界である
ーー世界がどのようにあるかということが神秘的なのではない。世界があるということが神秘的なのだ
世界はふたつあるとみなしても良い。すなわち、「世界そのもの」と、「私にとっての世界」である。
そしてこのふたつの世界は見えざる手で、ひそかに結ばれている。世界認識のカギは、その手に握られているのである。
「曼荼羅」とは、全世界、全宇宙を1枚の画面に凝縮した図像である。ヨーガ行者のいる岩の壁に描かれた稚拙な図像が、ふたつの世界をつなぐ’見えざる手’のように私には見えた。
私が言いたいのは、極めて明白な事実である。誰もが自分の目で世界を見ている、と言うことだ。自分の頭で世界の像を描いている、ということだ。
無論世界を見ようとし、世界を解こうとしない限り、世界はただあるがままに存在するだけであろう。
その世界を自分の世界につなげること、それなしに世界は意味を持たないのである。
とすれば、世界はそれを見ようとし、それを解こうとする人の数だけあると言うことになる。人は、それぞれに心の中に、曼荼羅を持っているのだ。
そこで、私は自分の小さな世界から、あらためて地球を望見し、それを私なりに解読して、ひとつ、曼荼羅に仕立ててみようと思う。あのヨーガ行者のように。
私の世界像(イマゴ・ムンディ)はどのような図像になるか。
だが、そんなものが描けるだろうか。なんとも心もとないけれど。
[国宝 霊山変相図]
根津美術館特別展「北宋書画精華」チラシ