第81回『哲学する子どもたち』中島さおり2016年
冨田鋼一郎
有秋小春
副題:自分の頭で「正しく考える」
全27章、550ページを越す論理学の教科書。
副題の「自分の頭で正しく考える」を見て、小林秀雄が学生相手の講演で「良い質問をしてください」と注文をつけたことを思い出した。学生でなくとも小林秀雄にそう言われたら、質問するのを躊躇する。
日本では、自分の頭で「正しく考える」ことを何故か学校で教えてもらった覚えがない。
専門家の「論理学」の本は、これまで観念的で無味乾燥だと決め付け、敬遠してきた。
しかし、本書は、デカルトの『方法序説』を著者がきちんと消化した上で、具体例を使って述べているので、私にもなんとか読む意欲が持続した。
何故、デカルトから出発するのか。
「ものを考える」ことは次の二つに分解される。
「問いを見つけるための技術」+「問いから答えを導くための技術」から成り立つ。
デカルト以前の西洋論理学の対象は、もっぱら後者の問いから答えを導くための技術」に関することだった。
前者の「問いを見つけるための技術」は、キリスト教社会ではなんであれ問いを提示することは、禁じられてきた。それは神の創りたもうた世界に疑いを抱くことに他ならず、畏れ多いこと。問いとなることがらは、全て神によって与えられていた。人間はどう解くのかということだけ。
だからデカルトの「我思う、ゆえに我あり」と「全てを疑おう」は、天地をひっくり返すほどの根底的な異議申し立てだった。
「自分の頭で良い問いを考える」西洋近代哲学はデカルトから始まる。
時には「良い質問をする」=「自分の頭で正しく考える」エクササイズをするのは大事なことだ。
ノートに書きつけた言葉。
「論文とは、自分の頭でものを考えるために考え出された方法そのものである」。
フタリシズカを見つけた。