読書逍遥第192回 『定義集』大江健三郎著
『定義集』大江健三郎著
この中に『「学び返す」と「教え返す」』という興味深い話題がある
鶴見俊輔の「まなびほぐす」からヒントを得た
どちらも学びを丁寧に扱って、自己を見つめ直し、自己を知る手掛かりにしたいとの思いが込められている
「学び返し」は、畑の土を耕して生育させるイメージに近い
普段耳にする「学び直し」は平板で奥行きがない
「学び返す」と「教え返す」』は結局、自分の人生をまとめていく終わりのない作業のことだ
白状すると、今回初めて大江健三郎の文章を読んだ
アンラーンとアンティーチ、自問自答している
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大江健三郎
「学び返す」と「教え返す」(抜粋)
ここで私が「学び返す」と「教え返す」と、こなれていない訳し方をした元の言葉はunlearnとunteachです。
この英単語を覚えたのはどこでだったか、思い出せなくなっているのが私の自覚する思いの指標。
ところが、朝日新聞に載った、ホスピスケアを持つ診療所の徳永進医師と、鶴見俊輔さんの対話(2006年12月27日付)を、両氏の中間の年齢の者として、切実かつ心を打たれて読むうち、鶴見さんが「まなびほぐす」と見事に訳していられるのに出会いました。
さて、自分がこの10年バラバラに発表してきた3冊の小説をひとつの箱におさめて、長編三部作『おかしなニ人組』と名付けた特装版をつくりました。
このところ私は敬愛した文化理論家の死を悼む作業に加わってきました。彼の晩年の関心は、芸術家のlate style(最後のスタイル)でした。
late styleについての私への問いかけに、君は自分の後期の(あるいは最後の)仕事を全体として総合しようとしているか、というものがあったことを考え始めました。
私は新しい記憶ほどモロイという、別の「老い」の指標を認めました。アンラーンを(アンティーチと並べる形で)自分の作中人物に喋らせていたからです。
三部作の終わりの巻で、主人公に向けて、アメリカで長い間働いた大学を退職して、日本に帰り、別の仕事をしようとしてる老人が、俺は半生にわたって教育をやるうち、いつの間にか、アカデミズムでの自分のクローン人間だけ要請していたんだ、という転職のきっかけを話します。
そこで、やり直しを始めた。それは学んできたものを忘れる、つまり、アンラーンすることからだ。それに応えて、おれに学んだことが正しくなかったと教えてくれる、アンティーチしてくれる若い連中が出てきた。
アンラーンの、鶴見さんによる定義は、次のようです。「大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる」
そして、まなびほぐしたものの積極的な働きの例が示されています。
まずどのようにして、人は学びほぐすか、アランするか?
私が対の言葉として覚えているアンティーチと言う単語を辞書で見ると、そのための手がかりが掴めます。
「人に既得の知識(習慣)を忘れさせる、正しいとされていることを正しくないと教える、欺瞞性を示してやる」(リーダーズ英和辞典)。
私は、教育の現場で働くと言う経験をほんのわずかな期間しかしていません。そこで他の人間に教えることでありがちな過ちを犯すことこそ少なかったけれど、教えて相手から過ちを指摘されて、苦しく自己修正する事はなかった。それをやるように、教えている相手から逆に励まされるということもなかった。
実際、教師を続けてきた大学の同級生の誰かれと話していて、この経験の欠如が自分にもたらしている、本当に成熟していないところを寂しく自覚する、そういう事はしばしばあったものです。
鶴見さんは、教師という職業ではなく、ホスピスケアの「臨床の場にいることによってアンラーンした医者像を見とどけ、加えてあらゆる生活の場でのアンラーンの必要性がほもっと考えられて良い」とその文章を結んでいられました。
私が長年やってきたのは、「教育する場」「臨床の場」という実際に人を相手にするのではないが、小説の言葉で似たことをする仕事です。そこでアンラーンとアンティーチを2つながら書斎で試みることをするようになり、その手法を探ってきたと気がつくのです。
それが特に私の後期の(あるいは最後になりかねない)三部作に、現実に生きてきた自分に重なる主人公と、大事な友人でありながら、最も手ごわい批判者である人物を、常に必要とした理由だと納得しました。