読書逍遥第159回 『そして文明は歩む』(その3)1980森本哲郎著
『そして文明は歩む』(その3)1980森本哲郎著
「科学技術文明」という一神教
現在、人工知能(生成AI)が近い将来人間に取って代わるかもしれない、と議論が盛んだ。
生成AIのフェイク見分けも喫緊の課題になってきた。
人間の魂は、生成AIにそうやすやすと征服されることはないはずだと信じたい。
もう43年も前のこの本に耳を傾けたい。
ピノキオ物語(コロッディ)の教訓
ジェッペット爺さんの言葉。
「私が悪いんだ。このくらいの事は最初にもっと考えておくべきだったのだ」
生成AIも原子力技術も、ピノキオになるのか。
☆☆☆
(終章の一部を抜粋)
6つの文明の物語ーー以上、私は日本を含めて文明の6つの性格を私なりに検討してみた。むろん、これは私がさまざまなな異国への旅の中で考えた貧しい試論にすぎない。おそらく厳密な批判には到底耐ええないであろう。さらに詳しい考察は、後日に記さねばならぬ。
が、一応の筆を擱くにあたり、私は今やこのような多彩な文明を巨大な技術の力で無残に画一化しようとしている「現代文明」にふれないわけにはいかない。それぞれの民族がそれぞれの魂によってつくり上げてきた多元的な文明は、地球そのものを吹き飛ばしかねないまでに成長した科学によって、ついに無性格な機械文明にとって代わられてしまうのであろうか。
たしかにそのような兆しは、既にはっきりと見え始めている。ジェット機が、コンピューターが、人工衛星が、核エネルギーが、テレビが、超高層ビルが、そしてミサイルが寄ってたかって、地球上の人間すべてを一様に変えだしているからである。後日を期すなどと私は言ったが、西暦2000年の世界には、もはや文明の分類などは無意味になっているかもしれない。地球上に見られるのは、ただひとつの文明、科学技術文明=機械文明と言うことになりかねないからだ。
だが、しかし、と私は考え直す。はたして、人間の魂というのは、そう簡単に機械に征服されてしまうものであろうか。人間はそうたやすく、自分の生を機械に譲り渡してしまうだろうか。たとえどのように機械が巨大化しても、人間はそれによって生きている魂を、そんなにやすやすと機械に差し出してしまうはずがない。そうなったら、もはや人間は生きている意味がないからである。
私は現代文明といい、機械文明といい、科学技術文明と言った。しかしこのような呼び方は当を得ていないのではあるまいか。なぜなら、文明とはあくまで人間がつくりだすものであって、「現代」と言うような時代や「機械」と言うような無機物が生み出すものではないからだ。機械はどのような機械であろうと、文明の素材でしかない。文明をつくり出す’大地母神’はどんな時代であろうと、最終的には人間の魂なのである。その魂が生きつづける限り、人々はいかなる機械にも、自分の魂をその上に刻みつづけていくことであろう。
私はこうした神の力をそのまま機械に移し替えるつもりはない。けれども、神の顔にまでおのれを刻みつけずにはいない。人間の魂が、自分たちのつくりだしたた機械に、何の刻印も押さないとは絶対に考えられないのだ。機械に自分たちの魂を奪われるのではなく、機械に自分たちの魂を吹き込むことによって、人間は「現代」の「科学技術」を生み出した不気味な「機械」文明を乗り越えてゆくに違いないと私は思う。これまで数多くの文明が、幾多の試練を乗り越えてきたように。
そして文明は歩むのである。
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