読書逍遥第271回『中国・江南のみち』(その1) 司馬遼太郎著
冨田鋼一郎
有秋小春
「読書の報酬」について
読書はいくらしたって果てしがない。ではなぜ読書するのか。このことは、若いときからずっと気になっていた。
「読書の報酬」という文を読んだ当時、よく理解できなかった。だから色鉛筆で線が引いてある。
これを読み返してみた。読書とは、点から線へ、線から面へとタペストリーを織り上げていくようなものかもしれない。
以下、「読書の報酬」から抜粋。
☆☆☆
もし万巻の書を読破したならば、その時の気分というものはどんなものだろう。よほど強靭な精神の持ち主でない限り、何が何だかわけがわからなくなってしまうに違いない。
幸い人間の頭脳には限度があり、記憶の容量も決まっていそうだから、その容量を超えたぶんは次々に忘れてしまうことだろう。
とすれば、読書とは誠に不条理なものと言わねばならない。人は忘れるために読むと言うことになりかねないからだ。
とは言え、読んだものを、全て完全に忘れ去ってしまうわけではない。
本を読みながら深く刻まれた印象は、ほんのわずかなりとも無意識の層に沈殿し、それが思いがけないときに、ひょいと意識の表面に飛び出してくる。それが読書の報酬ではなかろうか。
その報酬が無いならば、読書とは全くの暇つぶしに終わってしまうだろう。つまり、そうした意識の思いがけないきらめきで精神を飾ること、それが読書の意味なのである。
そして、そのきらめきをどのように自分の世界にまとめ上げるか、それでその人の読書の価値が決まるといっても良い。
(森本哲郎『思想の冒険家たち』より)