第1回『兼好』島内裕子著
冨田鋼一郎
有秋小春
副題 発想・取材・表現
最近の新聞記事には署名入り記事が増えた。以前はほとんど記名のない記事ばかりだった。報道には「私のいる文章」は無用だと言うわけだ。
ライヘンバッハによると言語は「絵画的言語」と「科学的言語」に分類されるそうだ。絵画的言語とは人々の想像力を刺激する絵画のような言語。科学的言語とは明瞭であることを目的とするため想像力の働く余地がない言語のこと。
著者によれば、科学的言語は「私のいない文章」、絵画的言語は「私のいる文章」となる。
「私のいる文章」を書くのは大変難しい。なぜなら、自分の中に何かを育てていなければ、そして表現する力がなければ、書くことができないからである。
私が小林勇に強く惹かれたのは、彼の著作が、全て「私のいる文章」であるからだ。人物評伝であれ、エッセイであれ個性が溢れている。
私も自分の中に何かを育てなければならない。けれど自分を育てるのは難しい。
その他、本書で目に留まった言葉。
「好奇心とは、人間の生命力の関数である」
「1冊の本を買うということは、「ひとつの世界」を自分のものにするということ」
「人間の仕事というものは、例外なく「やっつけ仕事」である」
「おどろきのないところに発見は無い。何よりも大事な事は、いつもおどろきを失わないこと。人生という旅において、決して旅なれてはいけないということ」
→おどろきをバネにして、好奇心を養い、日々暮らすこと。