第97回 『そして、自分への旅』森本哲郎著


『そして、自分への旅』森本哲郎著
元国会議員が常習的脅迫容疑と報道された。
一体彼のなかで何が起きたのか。心の中は知るよしもないが、言動と世間との間に相当の開きがある。
森本哲郎さんがドン・キホーテについて語った「二階建て論」を思い出した。『そして、自分への旅』中で論じたもの。
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人間は世間に住んでいます。しかし、同時に人間は自分の中に住んでいる。自分の中に住んでいる人間が集まって世間を形づくっているのです。ですから人間は二階屋に住んでいるといってもいいでしょう。人間は二重に生きている。そしていうまでもなく、「自分」こそが人間の本当の住み家です。
ドン・キホーテは甲冑に身をかため、ロシナンテに打ち跨って家を出ました。つまり、彼は「世間」という家を出て、「自分」という家へ向かったのです。すると世間に住む人たちは彼を嘲笑する。そしてみんなで寄ってたかってキホーテをつかまえ、むりやりに「世間」という家へ連れ戻そうとする。多勢に無勢、キホーテはかなうわけありません。そこにキホーテの悲劇があるのです。
スペインの思想家オルテガは、こう言ってます。「そうでありたいと願うことから、すでにそうであると信じることまでの間が、悲劇と喜劇との距離である」と。キホーテが、そうでありたいと願っている限り、『ドン・キホーテ』は悲劇だが、キホーテがすでにそうであると思い込んだとき、それは喜劇に変じる、というのでしょう。
しかし、私はむしろ逆に考えたいと思います。キホーテがそうであると思い込んだときに彼の悲劇が始まるのだ、と。キホーテが「わしが何者であるかはわしが知っておる」と明言したとき、この物語は悲劇になったのだ、と。
『ドン・キホーテ』は「自分」を知る悲しみ、知恵の悲しみを描いた世界最大の悲劇だと私は思うのです。
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人生を悲劇と呼ぼうが、喜劇と呼ぼうがすべての人は生きている限り、自分と向かい合い、自分と格闘しなければならないことに変わりはないと思う。