読書逍遥

読書逍遥第221回 『オランダ紀行』(その10) 街道をゆく35 司馬遼太郎著

冨田鋼一郎

『オランダ紀行』(その10) 街道をゆく35 司馬遼太郎著

グロティウス(1583-1645)

エラスムス(1466-1536)

☆☆☆

16世紀、ロッテルダム生まれの司祭エラスムスが、神学からぬけ出て、カトリックの時代に人文主義の立場を確立したのは、物を考える世界での歴史的偉業だったといっていい。彼は、理性のかたまりだった。

その著『痴愚神礼讃』において、上は教皇から司祭まで、さらにはそれを取り巻く王侯貴族ら封建の世のバカバカしさを、その時代のただなかで痛烈に揶揄し、風刺し、戯画化しつくしたのである。

しかも彼自身、自分の激情を抑え込み、また宗教改革者らの熱狂ぶりをも厭った。理性の確立ということで、『痴愚神礼讃』こそヨーロッパの近代の幕明けをなしたと言える。

彼は、ローマ世界以後、ヨーロッパにおける最初の文章家といわれるが、エラスムスのような考え方と理性は、商業地であった低地地方(ネーデルランド)ではふつうだったのではないか。

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グロティウス(1583-1645)

17世紀のオランダの活動には、法学的要素もある。
“国際法の父”と呼ばれているグロティウスも17世紀のオランダが生んだ人である。

オランダが商船の国であったために、海上における国際的なもめ事が多かった。

グロティウスは、オランダ東インド会社からひとつの紛争の解決を頼まれた。

会社の船がポルトガル船を捕獲し、問題になった。彼はこの紛争の処理にあたって、こういう紛争は力でなく、法によって処理されるべきだと思った。

それには考え方の基準が必要だった。その基準として書いたのが、国際法の歴史で、最初の近代的な著述といわれる『海上捕獲法論(1604-5)だった。

くり返すが、造船も要塞作りも、エラスムスやスピノザにおける透明な理性も、グロティウスにおける国際法も、すべて商業という機能の所産だった。

商業は、モノを質(商品の品質)と量(商品の数)で、またものごとを理性で見るのである。
紛争もまた、宗教の規範から離れ、アムステルダムが計量所が秤で商品をはかるようにして、法ではかれないか、考えたところが、グロティウスの17世紀のオランダ人らしいところであった。

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冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
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