第71回『柴田宵曲文集』全八巻


日本の俳人・歌人・随筆家・書誌学者。
『柴田宵曲文集』全八巻
森銑三とは書物を介した布衣の交わり。
アルス版「子規全集」編纂の裏方に徹し、子規を最も知悉した人物。
時代を感じさせないコクのある文章が魅力。
「子(柴田宵曲)は中学を中途で退学したといふ乏しい学歴しか持たなかった。
しかしそれから図書館に通って、自分の好きな本を読み、自分で自分を作り上げたのだから、ちょっと真似の出来ぬ人だった。・・・『古句を観る』の古句は、元禄時代の無名作家の手になつた俳句ばかりを集めてゐる。それでゐてその個々は今日出しても清新な句ばかりなのだから、元禄時代にかやうな句も出来てゐたのかと驚かされる。
『古句を観る』 森銑三解説より
宵曲子は古い俳書をも丁寧に読んで、さうした句ばかりを集めてゐたので、その点に子の鑑識が窺はれる。
・・宵曲氏は一歩退いて世を送らうとしてゐた控え目な人で、そのことは一部の人々に知られてゐるのに過ぎない。
子は何ともいはれぬ気持ちのよい人で、その実力は子を知る限の先輩同輩の等しく認めるところであつた。」
「年末から年始にかけての数日を家に閉籠って、二階で日向ぼっこしたり、下の居間で炬燵に当たったりしながら、柴田宵曲氏の新著『蕉門の人々』に読み耽った。
『蕉門の人々』 森銑三解説より
それが私には近頃楽しいことだった。
『蕉門の人々』には、俳諧随筆という冠称が附してある。
序文には、「ただ作品を通して直接その人の面目を窺おうという、おぼつかない試みの一に過ぎぬ」と断ってある。
しかしながら本書の著者は古句を心解し、味読することにおいて、いわゆる研究家を任ずる人びとの到達し得ない世界に住している。
おぼつかない試みというのはもとより遜辞で、著者の態度はあくまでも手堅く、また手強い。
作品そのものを仲介として、蕉門の諸作家に肉薄し、膝詰談判に及ぼうとする。
そこに息の詰まりそうな緊張した気分さえ伴っている。
本書の内容は、祖述ではなくて創作である。
随筆とは銘打ってあっても、ただの漫文や雑文とはわけが違う。
全体が渾然とした作品に成っている。その点に及び難い感を抱かせられる。」
道端のタンポポ。こんなに美しい!