小林勇のエッセイ(その2)随筆「くちなしの実」(『小閑』より)
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一人でいても心豊かな時間を過ごした小林勇
『小閑』の中からいくつか書き留めておいたものをシリーズでここに載せる
日本画で白い花を描くのは難しい。蕪村も例外ではない。周囲の葉を無造作に墨で描き残した部分が白色の紫陽花の花である。誰もが苦労している
私は小林勇の身辺エッセイが好きだ
終生、ペンと絵筆を手放さなかった
鎌倉の自宅で静かに原稿や画紙に向かっているときの心持ちが、このエッセイにもよく表れている
ここに登場する野上弥生子女史は、小林勇にとって谷川徹三・俊太郎父子とともに北軽井沢学者村でお付き合いしたお隣さんである
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「くちなしの実』
久しぶりに降った雪で、庭が真白だ。陽がさすとふだんのわが家の庭でないほど明るくなった。木の葉は皆落ちつくしているから、鋭い感じの枝が雪晴れの青い空にくっきりと美しい。椿の花とくちなしの実だけが赤い。
鎌倉の山には椿が沢山あり、それが今花盛りである。わが家の椿も山からとってきて植えたのが大きくなったのであろう。
くちなしは私が好きで植えたのだ。大振りの八重の重厚な花の咲くくちなしと、日本流の淡白な一重の花の咲くくちなしである。
どちらも好ましいのであるが、絵を描くには、大きな方が良い。この花が咲き出す、初夏の頃が私は大変好きである。
実をつけるのは、一重の花が咲く方である。その花の落ちたあと、雌蕊が次第にふくらんでゆき、秋になると黄色くなる。さらに晩秋初冬この実が赤くなると、毎日小鳥がやってきて啄んでいる。
いくつもあった美しい実がだんだん少なくなって行くのを眺めていると、いつの間にか厳しい寒さが来るのだ。やがて雪の庭に小鳥が食い残した小さい赤い実を見ていると、なんとなく春がもう近いような感じになる。
或る年私は小鳥に食われるのを惜しんで、この実を採ったことがある。くちなしの実は煮出して濃くすると、美しい黄色となり染色に使えるし、絵具の役もする。
しかし私はせっかくとった実も使うことなく今もそのまま、部屋の隅に投げ出してある。これでは小鳥に与えたほうがよかったと考えて、その後はとらぬことにした。
もう20年以上前になる。野上弥生子夫人にくちなしのご飯をご馳走になったことがある。飯を炊く時、くちなしの実から取った汁を入れると、白飯ではなく真黄色の美しい飯ができる。
くちなしの黄はあくどくなくてほのぼのと上品である。その飯に、別に2日も前から、とろ火でゆっくり煮ておいた汁をかけて食うのだ。その汁には肉や野菜が入っている。
黄色い飯は食欲をそそり、汁の味が不思議にうまく感じられた。このご飯のことを「黄飯」と夫人の郷里九州では呼んでいるという。恐らく中国から来た料理であろう。ところが夫人がしきりに黄飯を自慢するので、酔っていた私は「何だ、牛めし方がよっぽどおいしいや」と野次ってしまった。夫人は「そりゃそうよ。牛でご飯を食べる方がおいしいでしょう」と言った。
私は夫人が、屋台で一杯五銭で売っている牛めしのことを知らぬのを面白く思った。今日は雪の庭に残っているくちなしの実をとってきて、正月のつれづれに黄飯でも作ろうと思う。
[花瓶とくちなし]