読書逍遥第291回『中国・蜀と雲南のみち』(その2) 司馬遼太郎著
冨田鋼一郎
有秋小春
(「近世畸人伝」伴蒿蹊抜粋)
「摂津国に富豪でありながら儒学に長じ、しばしば世に陰徳を施した男がいた。この男が死んだとき、遠近から男女群れ集って泣き悲しむこと、ちょうどお釈迦様の入滅なさったときもこうだったかと思わせるほどだった。
一人の無知な老婆が言うことには、「これほど学問なさってさえも善い人であったのなら、もし学問なさらなかったなら、どれほど善いであったかなあ」
この人にとっては、学問をすると悪い人になってしまう。よき人になるためには学問は妨げ以外の何ものでもなかった。
人はなぜ学ぶのか?
テストで良い点を取るため?
出世するため?
心の細胞をリフレッシュするため
「自己実現」とは
「真の大丈夫」になること
→自分がなることのできる最高の自分になること
「道化師のソネット」 さだまさし
笑ってよ君のために
笑ってよ僕のために
僕らは別々の山を
それぞれの高さ目指して
息もつかずにのぼってゆく
山びとのようだね