「蘇州(中国) 緑つづく道」 「森本哲郎の美しい文章と写真を味わうシリーズ」(その3)
「旅をしながら考える、考えながら旅をする」森本哲郎さん。
神宮外苑再開発事業が揉めたまま越年した。
この計画には、高層ビル、ホテルの建設、健康な樹木の伐採など、現在の景観や環境が損なわれかねない懸念が指摘されている。
再開発による商業的価値向上より、都市の自然景観(樹木を出来るだけ伐採しない)維持を優先すべきという機運が高まってきた。
そんな時、出会った森本哲郎さんの文章「蘇州(中国) 緑つづく道」を紹介し、日本の都市景観という観点から、並木を大切にすることの意味を考える。
この「蘇州(中国) 緑つづく道」の文章は、43年も前に書かれた。未だに説得力を持って迫ってくる。
(森本哲郎『世界への旅』別巻より)
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蘇州(中国) 「緑つづく道」
長年、日本に住んでいるインドの知人に、日本で一番奇妙に思ったことは何かとたずねたところ、彼はしばらく考えたすえ、
「ニッショウケン」と答えた。
え?、と思わず聞き返すと、彼は真面目な顔でこう言った。
「つまり、その、太陽の光に当たる権利、というやつですよ。日本では、それで裁判沙汰にまでなるじゃありませんか。わからないなぁ」
ははあ、日照権か。しかし、どうして日照権がそんなに奇妙に思えるのだろう。理由を聞くと、インドでは逆に”日陰権”の方が大切だから、というのである。そこでインドでは、樹木が大切にされ、ことに並木など、切り倒すなどということは、もってのほか、枝を払ったりすることさえしないと、彼は言った。そんなことをしたら、貴重な日陰を奪うことになるからである。
それを聞いて、私は、インドのいたるところに延々と続く並木道を思い浮かべた。二抱えもあろうかと思われる菩提樹が、道の両側に一定の間隔で植えられており、車で何時間走っても尽きることがないのだ。しかも、そのうちの一本たりとも、小枝すら払われておらず、木々は思いのままに枝を広げ、心地よい緑のトンネルをつくっているのである。私はつくづく羨ましいと思った。
しかし、並木と言うなら、並木の王国は中国であろう。あの広大な国土の、道と言う道にはかならず並木が続いている。中国では道というのは並木道のことなのだ。
北京や上海の空港からバスで街に向かって走り出すやいなや、日本人観光客の目を驚かすのは、道の両側に何列にもわたって植えられた見事な並木である。プラタナス、クスノキ、柳、カエデ、桃……何種類もの木々が、なんと素晴らしい木陰をつくっていることか!
その並木は、街に入っても終わらない。街中の道と言う道は、必ず並木の緑でふち取られている。中国人ほど道を大切にする民族はいない、と思われるほどだ。いや、実際、そうなのである。
日本には’みち’という言葉しかないが、中国人には’みち’をさまざまに区別した。「道」とは人の通るみちである。「路」と書けば、それは車馬の通る広いみちを意味する。さらに「途」というのは、ある目的地までのみちのことであり、そして、「径」とは散歩が愉しめるような細い小みちをあらわしている。
日本人も道が大好きで、武道、華道、書道、茶道…..何から何まで「道」にしてしまう、と言われるが、それは中国の受け売りに過ぎない。中国語では「知る」という言葉は「知道チータオ」であり、「書く」は「写道シータオ」、「言う」は、「説道スオタオ」というのである。中国文明の原点は、まさしく道(タオ)にあるのだ。
それにくらべ、日本人は、観念的には「道」を大切にするが、じっさいには道を少しも大事にしていない。その証拠に、日本の町々には、美しい道がほとんど見当たらないではないか。日本では、道はただ交通と言う機能的な面でしか考えられていないのである。
だから、大切な道に醜悪なセメントの電柱が林立していても、なんとも思わず、日当たりが悪くなる、電線に触れる、などと言って、道を並木で飾ろうともしないのだ。