読書逍遥第186回 『細胞』(上・下)(その5)ジッダールタ・ムカジー著
冨田鋼一郎
有秋小春
今から120年前の1902年秋に漱石が辿ったスコットランド(ピトロクリ)を、筆者が
訪ねて、漱石の想いを探る。
「ピトロクリの谷は秋の真下にある。十月の日が、眼に入る野と林を暖かく色に染めた中に、人は寝たり起きたりしている。///いつ見ても古い雲の心地がする。」
漱石『永日小品』の「昔」冒頭より
「秋の真下」「古い雲の心地」。驚くべき表現だ。
漱石の視点は目の前に広がる谷に固定して動かない。
「漱石が四辺の風光の美しさの中に溶け込んでしまっているような、美しい小品–漱石が西洋のことを書いたものの内で、恐らく無比の美しさを持った小品」(小宮豊隆)。
ロンドン留学から帰国して6年後に書いた。よほど心のカメラに焼き付けたのだろう。
本書は、単なる歴史探訪ではない。
漱石のこの2週間ほどの旅が、帰国後の作家への道と『草枕』誕生の発端となっていることを、漱石似の抑制の効いた文体で綴る。