父の戦地での思い出
父から思い出話を聞いたことはない。ただ一つ松翁会会報に寄稿したことがあるので、ここに紹介する。ことに最後の強烈な一文に目を引きつけられた。
なぜ60歳になってこの文章を書く気になったのか、内容についても聞いたこともない。あまりにも近くにいたせいだろうか。
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冨田修平 『神藤山(のぼる)君のこと』(松翁会会報1975春)
今から三十四年前の私は、在中支第一線部隊の大隊砲小隊長であった。警備地だった湖北省麻城県胡三勝という地域は、大都市漢口の東北方わずか七十キロメートル程の所にありながら、電気もガスも水道もなく、飲料水すら川からくみ上げる始末。夜ともなれば食うにも読むにも、現地産の蝋燭だけが頼りという有様で、百年前の世の中に逆戻りしたような印象だった。秋が長くて冬が短い温暖な気候に恵まれて、各部落の人口は稠密ながら、麦畑と綿畑が交互に織りなす丘陵地ののどかな風景は今も懐かしくしのばれる。
その頃の部下だった神藤伍長は、直情径行的なところがあるが、命を張って仕事をする。いわゆる「野戦で役立つ男」であることは、彼が既に持っていた金鶏勲章が証明していた。体もがんじょうだったが、すべてに行動的な彼は、兵に命じてやらせるようなことまで言う前に自分でやってしまうというところがあり、又、馬の取り扱いに長じていて、だれでももて余すような暴れ馬も彼にかかるとおとなしくなる不思議な才能の持ち主でもあった。人が身の危険を感じてしりごみするようなときに、進んで買って出る気風の良さは天性のもののようで、内地の頃も漁業の網元でさえ一目置いていたという。私のように気の弱い見習い士官小隊長にしてみれば、怒らせたら怖いぞという扱い難い感じがどうしても残ったが、パンパン銃声がさく裂する戦闘ともなると真に頼もしい部下であった。
ある夜、酒の勢いもあってけんかが始まり、同伍長がH軍曹を殺すといって暴れているという知らせに驚いて行ってみると、相手の軍曹はいち早く姿を消していたが、伍長の形相はものすごく、(彼の顔には左の口元から耳にかけて一直線に小銃弾擦過傷があり、紅潮のほおにそれが一段と黒ずんでいた。)成り行きいかんでは小隊長といえども容赦しないとの構えである。下手にどなりつけでもすれば血の海となっていたと思う。手にした拳銃を見たとっさに、ここで死ぬのかという思いが私の脳裏をかすめたが、次の瞬間にはもう阻止に向かって夢中で動き出していた。彼の気持ちを極力和らげつつ、その非を諭(さと)す、それしか方法が見当たらなかったのである。
「不忠な子になってもいいのか、親のことを考えてみよ、もし思い止まらないのならおれがお前を殺して自分も死ぬ」といった意味のことを繰り返し述べ、この時ばかりは精魂こめて説得する以外になかった次第である。
どの位経過しただろうか。にらみ合った彼の顔が一瞬ゆがんだかと思うと、あふれた涙が鼻からほおから服を伝って床に滴り落ちた。一言も発せず、ぬぐいもせず、私はあんな慟哭を後にも先にもみたことがない。
かくてともかくも事なきを得たが、その後程なく私は連隊副官として本部に転じ、彼もまた昭和17年頃内地に帰還したことは知っていたが、以来三十余年、互いに生死も住所も不明のまま再会することがなかった。一度会ってみたい、死んでいるなら墓参をと、私は浜松へ帰郷した折には豊橋まで足を延ばして、電話帳を繰ってみたり、人に尋ねたりしたこともあるがついに果たさなかった。
たまたま昨年9月15日、靖国神社で旧連隊の戦没慰霊祭が挙行されるに当たり、これを機に何としても捜し出したいと考えた私は、失礼を顧みず豊橋市長に依頼状を出してしまった。氏名と略歴と渥美郡高豊村といううろ覚えの住所だけで、三十年以上も前の伍長を探して欲しいというのである。しかし、何とも有り難いことに一週間程して同市役所より電話を頂いた。本人は戦後「〇〇」と改名したことと、名古屋市郊外の現住所のお知らせであった。
私はその場で速達便を書いた。翌日、彼からの電話と手紙がおり返し届けられた。手紙の冒頭、彼はこう書いてきた。「・・・何から申し上げてよいやら、在支中は大変ご迷惑をお掛けしましたが、格別お目にかけて頂いたお陰で、今日の私があると思います・・・」と。そうだ、あの場合説得に失敗していたら、私も今の家内と結ばれることもなく、二人の息子も孫もこの世に生まれてこなかったんだ。そんな感傷に浸りながら、彼の手紙を読んだものである。
その後、一度は私が名古屋のお宅を訪問して一泊させて頂き、一度は彼が奥さん同伴で上京されたが、仲極めて円満な中年ご夫婦を前にして、心からうれしくもあり、安心もした次第である。
又、同君のお骨折りで当時の小隊在籍者の消息も、もつれた糸が解けるように分かってきて、現在四十五名の名簿が出来上がっている。会合を開け開けという声が昨年暮頃から盛んになり、やるなら我々の入営地豊橋で・・・という私の意見が採択されて、同地で初会合が催されることになり、この程その案内状を受け取ったが、開催日二月八日は偶然にも私の満六十歳の誕生日に当る。私にとってはすべての人が三十数年振りの再会であり、学友や職場の友とは又違った雰囲気の戦友の会合なので果たしてどんなことになるのか、今から楽しみである。
間もなく還暦を迎える私の人生だが、このうち軍隊生活が無視できないウエイトを占めていると思う。中支、満州、比島と行動範囲も広く、期間も六年の長きに及び、且つ、そのほとんどが戦闘部隊の第一線に在ったからだ。夜半に目覚めて脳裏に去来するのは、大抵大陸での戦闘や悲惨だった比島戦線のことである。生か死かの極限のものほど印象も強烈で、記憶も鮮明だからだろうか。しかしそれもこれも今となっては得難い体験だったし、自分なりにまあよくやってきたと思うからだろうか。私は、自分が軍人だったことをそんなに残念とは思っていない。 (昭和50年1月20日 記)