椿椿山筆『老松鳩図』幅
辛亥夷即倣古 椿山生 印弼
嘉永4年(1851年)7月作
夷即:陰暦7月のこと
この作品は、師崋山自刃(1841年)から10年後のもの。老松鳩図を描きながら、椿山はどのような過去の出来事に思い巡らしていたのだろうか。
師崋山を忘れる日は、一日もなかったはずである。自然美を追求するこの画家の純粋さが見るものに伝わってくる。
椿山は、崋山が最も心をゆるしていた画の門人。崋山については、椿山を除いて語るわけにはゆかない。
二人の画論をめぐる往復書簡は、絵画は何を目指して描くのかをめぐる
真摯なやりとりである。師弟というより、深く、堅い人間的なつながりで結ばれている。
椿山の画業は、師崋山の気品を重んじる画風を継承し、肖像画、花鳥画、スケッチなどに優れた作品を残した。特に花鳥画では崋山も一目を置く。温雅・鮮麗な独自の世界を創りあげている。
崋山の作品には、独特の緊張感・緊迫感が漂っているが、椿山にはそのような緊張感は感じられない。そこには温雅・静謐な世界が広がっている。
椿山の作品は、西洋のバルビゾン派やハドソン・リバー・スクールの世界に通じるものがある。
崋山と椿椿山の交わりについては森銑三の優れた文章がある。
椿山の画は、最初金子金陵に学んだが、同門の8歳上の先輩の崋山の人物に推服した椿山は、改めて崋山に入門した。
崋山の奇禍(蛮社の獄)に対して、椿山はその救済活動の中心人物となつて、奔走しました。
椿山等の願ひは叶つて、崋山は罪一等を免ぜられ、田原に囚人としての余生を送ることになり、椿山はどんなにほつとしましたか思い遣られる《森銑三》
田原に侘しい日を送る崋山と、江戸の椿山との間には、郵書の往復が絶えませんでした。
椿山が草虫図を作つて崋山に寄せて、崋山にもその作を請うたのに対して、・・その図に精根を打込みましたので、画の封を切らぬ前に題を見て、それを私がどんなに画いたか、こんな風だらうかなどとお考へ下すつて、その上で披いていただきたい。人の居る所ではいけません。
お独りで見ていただきたい。
先日のお手紙に、倅にも見せずに独りで楽しんでゐて、つい出し後れたとありましたが、これは私の知己の言葉として嬉しいことです。
私はそれを忘れません。楽しみを同じうする人が、天下に幾人ありませうか。天地広しといへども、ただ足下あるのみです。
ですから、一箇所でも気に入ったものの出来た時は、足下を渇望すること限がありません。
崋山は門人の椿山に対してかやうにいつてゐるのです。
この一通の書を見ましても、純粋な人物同士が、胸襟を開いて接触した、その様子が忍ばれることでございます。《森銑三》
椿山の画については、椿山の人柄がそのままに現れて、得意の花卉など、温雅また淡雅などの言葉でたヽへたいものが多数ございます。
椿山の傑作に至りましては、決して崋山の下位に置かれるものではありませんし、浅野梅堂などは、崋山以上に椿山を認めることを、その著書の中ではっきり述べて居ります。
ところが現代の市価では、崋山の画と椿山の画とではかなりの開きができてゐます。
けれども私は決して失望いたしません。
その内にはまた時勢も変つて、椿山の人物にも、その作品にも、尊敬の払われる日が到来しなくてはならないと思つてゐるのであります。《森銑三》
世間の評価は、崋山の影にかくれてしまって、クローズアップされることは少ないのは遺憾である。
江戸後期の文人画家。別号:休庵・春松軒・琢華堂。名:弼。字:篤甫。