読書逍遥第211回 『韓(から)のくに紀行』街道をゆく2 (その2) 司馬遼太郎
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『韓(から)のくに紀行』街道をゆく2 (その2) 司馬遼太郎
飛行機で釜山に着き、釜山→金海→慶州→友鹿洞へとたどる
明治42年漱石は、下関から船で大連に着き、ハルピンまで北上し、釜山に南下した
“ついでながら” “ともあれ” “話題をすこし変える”
“ここで、余計ごとを差しはさまなければならない”
脇道にそれた個所には注意が必要だ
独自の見方を展開する司馬遼太郎の特色は、ここに遺憾なく発揮される
彼の頭の中での独り言を聞くのが醍醐味
☆☆☆
“ついでながら”、韓国の農家というのは、家としての規模は日本の平均的農家よりずっと小さく、どの家も同じ規格でできていて、一見、日本の辻堂のような感じである。
日本のかつての農村の場合、家屋の大小や造りの違いが相互にあって、それらが風景としての村を構成する場合、そのものが造形的に美しい。
しかしながら、李朝500年と言うのは、儒教体制という人間飼い馴らしの体制であるために、農村の家屋まで規格化したように思える。
「天が公有なるがごとく、地も公有である」という体制思想は、当然、公田を耕す農民の家屋に原則として大小を認めない。
李朝体制と言うのは農民の競争本能をこうまで見事に凍結させてしまったかということが、非個性的な朝鮮家屋にもよくあらわれている。それはそれでみごとというほかない。
“ここで、余計ごとを差しはさまなければならない”ことは、儒教は中国大陸の民族によっては遠い文字以前の上古から血液化された当然の原理であったに相違ないということである。
孔子が出てきてそれを思想化し規範化したが、もともと儒教的原理そのものは漢民族の古代社会に原型として存在したに相違ない。
このために漢民族にとってはこの原理なり体制なり作法なりは無理のないものであったにちがいないが、半島の朝鮮民族は、漢民族とは言語も人種も歴史もまったく違っている民族なのである。
李朝500年の凄さは、その民族を、他民族の原理を導入することによって飼い馴らしてしまったところにある。
朝鮮人の持つ観念先行壁ーー事実認識の冷静さよりも観念で昂揚することーーやそれがための空論好きと言う傾向は、民族の固有の性格などというのようなものではなく、李朝500年の歴史がこの民族に対してほどした大無理と言うものを考えなければ理解しがたいようにおもえる。