美学者と科学者の会話 物理学者リチャード・ファインマンの言葉(『聞かせてよ、ファインマンさん』より)
この美学者と科学者の主張、どちらに同意するか?
フェルメールやルノアール、蕪村にとってこの世界はどのように見えていたのだろう。
テレサテンの代表曲「月は私の心を映している」の歌は科学者は無縁だ。
言葉や論理で表現し得ないものがあると思える。
科学者の世界を見る観点は、細分化して計測し、分析、比較、統合を繰り返す。せっかくの美味しい料理をあれこれモテ遊んで、不味いものにしてしまう。
そういえば、学芸員もせっかくの美術作品を「料理」しているのを見かける。
☆☆☆
僕(ファインマン)の友に絵描きがいて、これが時たまどうも僕の承服しかねるような考え方を主張する。
例えば彼は一輪の花を取り上げて「ほら見ろよ。実にきれいだろう?」と言う。これには僕だって同感だ。ところが彼は続けて「僕は絵描きだから、この花の美しさがわかるが、いやはや科学者の君と来た日にゃ、まず第一にこれをバラバラにしてみようとしたりするから、せっかくの花もてんで味気ないものになっちまうんだ」と言ったりする。
これはいささかとんちんかんな言い分だと思うね!そりゃこっちは芸術家の彼ほど美的に洗練されてはいないかもしれないが、彼が見ているその美しさというものは、僕を含めたあらゆる人間に通用するはずだし、僕にだって花が美しさはよくわかる。
しかも同時に、この花について彼が見ているものよりずっとたくさんの素晴らしいものが、僕にはちゃんと見えるんだ。
花の中の細胞や複雑な働きなどを僕は想像できる。これもまたある美しさを持ってるんだ。僕はここでただ1センチ四方などという、この限られた大きさの美しさだけを言ってるんじゃない。内部構造のようにもっともっと微細なところにも美しさというものがあるんだ。
そもそも、花の色合いにしたって昆虫をおびき寄せて、受粉するように仕向けるため、次第に進化したものだ。ということは昆虫どもにも色というものがちゃんとわかるということだから、この過程だって実に面白い。
そう見てくると、全く様々な謎が生まれてくる。例えば下等な生き物にも、僕らみたいな美的感覚というものがあるんだろうか?なぜそれは美的なのか?
科学の知識はこういった実に興味津々の疑問を通して、花の神秘さ、胸のときめくような素晴らしさ、そしてこの美しさへの畏敬の念といったものを、いよいよ強めるものなんだ。
科学は花の美しさにますます意味を与えこそすれ、これを半減してしまうなどとは、僕にはとても信じられないよ。(『聞かせてよ、ファインマンさん』)