建築家を目指していた漱石は、友人の一言で撤回した
それは、「文科大学始まって以来、大学が閉ずるまで二度とあるまじき怪物である」と漱石に言わしめた2歳年下のクラスメートの米山保三郎の一言。
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米山保三郎(1869-1897)
空間を研究せる天然居士の肖像に題す
⭕️空に消ゆる鐸(たく)のひゞきや春の塔 漱石
注)「天然居士」とは米山保三郎のこと
漱石談話 「時機が来てゐたんだ」
(明治41年9月)
「ふと建築のことに思ひ当つた。建築ならば衣食住の一つで世の中になくては叶わぬのみか、同時に立派な美術である。趣味があると共に必要なものである。
で、私はいよいよそれにしやうと決めた。ところが丁度その時分の同級生に、米山保三郎といふ友人がいた。それこそ真性変物で常に宇宙がどうの、人生がどうのと大きなことばかり言って居る。
ある日、君は何になると尋ねるから実はかうかうだと話すと、彼は一も二もなくそれを却けてしまつた。彼は日本でどんなに腕を揮(ふる)つたつて、セントポールの大寺院のやうな建築を天下後世に残すことはできないぢやないかとか言つて、盛んなる大議論を吐いた。そしてそれよりもまだ文学の方が、生命があると言つた。・・・
何だか空々漠々とはしてゐるが、大きい事は大きいに違ない。衣食問題などは丸で眼中に置いてゐない。自分はこれに感服した。さう言われて見ると成程又さうでもあると、其晩即席に自説を撤回して、又文学者になる事に一決した。随分呑気なものである。」
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建築は、次世代にまで形として遺すことができる。やりがいのある仕事だ。
建築家と作家、どちらに進むか。比較できるものとも思えないが、米山は漱石の進路に重大な影響を及ぼした。
所詮建築はいずれ朽ちていくもの。文学の方がもっと長く後世に名を遺すことができるじゃないかという。
尤もだと、漱石は納得し、文学に転向した。おかげで百年後の我々も漱石作品を味わうことができる。
若くして逝った米山保三郎の墓は、千駄木の養源寺の儒学者・安井息軒の墓に対面した場所にある。