日々思うこと

偽善家と露悪家!

冨田鋼一郎

漱石『三四郎』を読むと必ずハテナ?と立ち止まる個所がある。
言わんとすることを捉えようとするが、未だによくわからない。
人として成熟してくれば、いずれ分かる時が来ると構えているが、今回もダメだ。

広田先生が、三四郎に人間社会の進歩について語るこんな場面。

「近頃の青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。
われわれの書生をしている頃には、する事為す事一として他(ひと)を離れた事はなかった。
すべてが君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他本位(ひとほんい)であった。
それを一口にいうと教育を受けるものが悉く偽善家であった。

その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展し過ぎてしまった。
昔の偽善家に対して、今は露悪家ばかりの状態にある。(注:露悪家は広田先生の造語)

(ここまでは何となく理解できる。その続きが問題の箇所)

昔は殿様と親父だけが露悪家で済んでいたが、今日では各自同等の権利で露悪家になりたがる。
尤も悪いことでも何でもない。、、甚だ痛快である。天醜爛漫としている。
ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同士がお互いに不便を感じてくる。

その不便が段々高じて極端に達した時利他主義がまた復活する。
それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。

我々はそういう風にして暮して行くものと思えば差し支えない。そうして行くうちに進歩する。

英国を見給え。この両主義が昔からうまく均衡が取れている。だから動かない。だから進歩しない。」

「うん、まだある。此20世紀になってから妙なのが流行る。利他本位の内容を利己本意で充たすと云う六づかしい遣り口なんだが、君そんな人に出逢ったですか」

→(解釈)
露悪家が充満してくると、皆が俺が俺がと自己主張をし始め、ギスギスした社会になってくる。

これが極まった時、今度は「利他、利他」と騒ぎだす。
これを繰り返しながら社会は進歩して行く。

偽善と利他は殆ど同義で使われている。偽善と利他は紙一重なところがある。

結局のところ利己と利他は行きつ戻りつする。この繰り返しが社会が進歩に繋がるという事か?

当時、ダーウィンの生命に関する新しい説が人間社会の見方にも影響を与えてきていた。
漱石も触発されて、社会の「進歩」についていろいろ考えていた節がある。

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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
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