芥川龍之介の文章と漱石(その2)
短編『鼻』を再読した。
「禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。」(冒頭)
「自分で鼻を気にしていると云う事を、人に知られるのが嫌だったからである。日常の会話の中に、鼻と云う語が出て来るのを何よりも惧(おそ)れていた。」
「こう(短くなった鼻)なれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。鏡の中にある内供の顔を見て、満足そうに眼をしばたかせた。」
「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある。勿論、誰でも他人の不幸に同情しない者はいない。所がその人がその不幸を、どうにかして切りぬける事が出来ると、今度はこっちで何となく物足りないような心もちがする。少し誇張して云えば、もう一度その人を、同じ不幸に陥いれて見たいような気になる。」
「(元通りの長い鼻に戻ったことに気づき)手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顎の下まで、五六寸あまりもぶら下がっている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中にまた元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからもなく帰って来るのを感じた。
ーーこうなれば、もう誰もわらうものはないにちがいない。」
内供の心もちのなんと大きな振れよう!鋭い心理描写だ。「人間の心には互いに矛盾した二つの感情がある」。心の中とはこんなに複雑なものなのか!
この年齢になって次のように思う。
「’地球(社会)’と、’自分の心’は、一生かけて探求するに足る二つの大きな宇宙である」と。
自分以外のことばかり目を奪われていてはいけない。同時に自分の心の中を見つめ、理解に努めることを怖れてはいけない。
ここまで記してくると、『吾輩は猫である』の一節を思い出した。
「すべて人間の研究というものは自己を研究するのである。・・しかも自己の研究は自己以外にだれもしてくれる者はない。いくらしてやりたくても、もらいたくても、できない相談である。・・人のおかげで自己がわかるくらいなら、自分の代理に牛肉を食わして、堅いか柔らかいか判断のできるわけだ。(九)」
胸に突き刺さる強烈な言葉だ。いつになったら自分がわかるようになるのだろう。
漱石は、自選講演集に「社会と自分」と名付けた。これは「人間(自分)」を「社会」とを、生涯の研究対象とすべき両輪として据えていたことの表れである。
どんなに生成AIが進歩したとしても、「私はどんな人間ですか?」と訊ねることはできないだろう。
「自分の研究」すなわち、自己がわかるようになることは、他人であれ、生成AIであれ、自分以外に頼ることはできないと断言できる。