「映像の世紀 バタフライエフェクト」
冨田鋼一郎
有秋小春
この小説では、親子世代間の断絶による葛藤をうまく表現している。時代を超えて人生の場面をえぐり出すことにかけて、他の追随を許さない。
例えば、
「親爺の考えは、万事中途半端に、或物を独り勝手に断定してから出立するんだから、毫も根本的の意義を有していない。しかのみならず、今利他本位でやってるかと思うと、いつの間にか利己本位に変わっている。言葉だけはこんこんとして勿体らしく出るが、要するに端倪すべからざる空談である。」
親爺の頭の上に「誠者天之道也」といふ額が麗麗と掛かってゐる。、、代助は此額が甚だ嫌である。第一字が嫌だ。其上文句が気に喰わない。誠の道は天の道也の後へ、人の道にあらずと付け加へたい様な気がする。」
こんな緊迫した場面の間にそっと挟まれる次のような文章に強く惹かれる。
「代助はちょっと話を已めて、梅子の肩越しに窓掛の間から奇麗な空を透かすように見ている。遠くに大きな樹が一本ある。薄茶色の芽を全体にふいて、柔らかい梢の端が天に接(つづ)く所は、糠雨で暈(ぼか)されたの如くに霞んでいる。」
家の中から空を見上げる場面は、『三四郎』にも『門』にもいくつもあるが、ひとつとして同じ表現でない。細部にまで手を抜かない達意の文章だ。漱石の頭は、生涯回転し続けていた。
この大樹は、薄茶色の若芽だからクスノキだろうか。
赤いアマランスが印象的に出てくる。白百合と対照的な色を持ってきた。読者も代助と共に頭を揺り動かされる。
「縁側の硝子戸を細目に開けた間から暖かい陽気な風が吹き込んで来た。さうして鉢植えのアマランスの赤い花弁をふらふらと揺(うご)かした。」