蕪村「奥羽行旅図」(8図)(その3)
冨田鋼一郎
有秋小春
第26章の冒頭の一節を紹介。漱石はこのような場面が展開する時の描写がことにうつくしい。
主人公の「私」が卒論をようやく書き上げて、晴れ晴れとした気持ちで先生宅を急いで訪ねる。
書き上げるまでは、頭の中は卒論のことでいっぱいなので周りのことや季節の移り変わりは目に入らない。
それが今では、「広い天地を一目(ひとめ)に見渡」せるようになる。「八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節」になっていた。知らぬ間に季節はこんなに動いていたのか。「萌えるような芽」や「つやつやしい茶褐色の葉」のような細かなところにまで目が行く。俳人としての目を持つ漱石ならではの自然描写の力。
「私」だけでなく、読者も心が浮き立ってのびやかになるのは、細部にまで手を抜かずに筆を運んでいるから。
人は、一つひとつ関門を乗り越えて、新しい自分に出会っていく。その積み重ねが人生となる。
========
「私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目(ひとめ)に見渡しながら、自由に羽搏(はばた)きをした。私はすぐに先生の家(うち)へ行った。枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に萌えるような芽を吹いていたり、柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引きつけた。私は生まれて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。」
この画は石楠花。