山口素堂筆「尋六々山題六言六句」漢詩
冨田鋼一郎
有秋小春
(天明3年10月5日正名宛て)
扨(さて)も打絶(うちたえ)、御安否もうけ給らず候。さむさしきり二候へども、御安静被成御坐候や、御ゆかしく候。愚老も此ほどは持病之胸痛、よほどこまりはて申候。しかし持病之事と、さわぎ不申候。其後御上京も無御坐候や。さてもさても浪花も寥々として、一向風雅の沙汰も不聞へ候。京師はまだ息が通ひ候かと存候。道立子、折節御うはさ申出候。余り御遠々しく候故、かくのごとくに候。扨も近年、画と俳とに諸方よりせめられ、ほどんどこまり申事に候。春作様、よろしく奉頼候。無腸御出会も御坐候はゞ、御伝可被下候。・・・・・
十月五日 夜半
正名様
物負フて堅田へ帰るしぐれ哉
蓮枯て池あさましき時雨哉
[解説]
蕪村没は天明3(1783)年12月25日。この書簡はその2ヶ月半前のもの。前月には、体力の衰えを自覚しながら若い衆と宇治へ松茸狩りに出掛けている。
持病の胸痛に苦しんでいること、諸方から画俳の依頼が舞い込み、困り果てていると心中を吐露している。
無腸は上田秋成の別号。正名と春作は兄弟で、道立とともに親しい弟子たち。
何気ない時候の挨拶は、きまり文句のようでありながら、「練絹のように艶」があり、「品のいい媚び」を含んでいる。
自らの様子を伝えるにも、身構えず開けっ広げで何の屈託もない。
○物負フて堅田へ帰るしぐれ哉
堅田:琵琶湖西岸の地名。現大津市内。近江八景「堅田の落雁」で知られる。
雲行きを案じて湖上の舟便を避け、大きな荷を背負って湖畔の道を堅田へと帰る人。
折から時雨にやっぱり陸路をとってよかったと思いながら黙々と道を急ぐ。
○蓮枯て池あさましき時雨哉
夏には見事な花を次々と咲かせた蓮も今は枯れ、時雨の中で池は見る影もない荒廃の姿を呈している。