渡辺崋山筆折帖「目黒詣」
目黒詣
文政己丑のとし十月
十四日鷹見定美
わたりへの登上田正平すゞ
木修賢等の多務
を労し玉ひ此日
命あり目黒のわたりに
遊ぶ
文政十二年(1829)十月十四日、田原藩江戸詰めの鷹見定美、崋山(当時は御用人格)、上田正平、鈴木修賢に対して藩主から事務繁多を慰労して一日郊外散策の許可が下り、四人は連れだって一日の清遊として目黒参詣に出かけた。
『目黒詣』は、その途中での光景とそれぞれの場に即しての俳句や狂歌、漢詩に詠む様子などを、各人の飄逸な発言を加え一巻の巻子本に仕上げたものである。
崋山は前年五月二十一日に御用人中小姓支配に取立てられ、また十月には巣鴨老公三宅友信付を兼ね、文政十二年八月には藩主より内々に三宅家の家譜選集を命ぜられ、目録と解題を奉呈しているので、その労をねぎらわれたものとも考えられる。
同行の鷹見定美は鷹見家九代弥一右衛門で、年寄格用人を勤め、二百石を与えられていた。
天保三年八月二十七日に没している。定美の父は七代弥一右衛門といい、田原藩の儒臣。崋山は少年時代に教えを受けている。
上田正平は同藩主上田順右衛門恒久の次子で、文化十四年五月兄周助が病身のため隠退したのち、文政五年六月江戸屋敷医師となり、同九年十月家督を相続して三十俵三人扶持を与えられ、字を恒休、号を春洞と称した。
天保五年十月六郎は銀座元締小南宗右衛門の養子になっている。
また鈴木修賢は『四州真景』や『客参録』などに名前が見える喜六(孫助)その人で、勝手係、三七俵取りであった。
四人が赴いた目黒には、江戸五色不動の一つとして庶民の信仰を集めた下目黒の目黒不動(天台宗寛永寺末寺滝泉寺)があった。
目黒不動は寛永年間(1624‐1644)三代将軍徳川家光によって造営され、参詣者も多く、遊楽の地として賑わった。
その門前には名物の餅花や白玉飴が売られ、また御福餅、栗餅、川口屋餅なども作られ、茶屋は遊楽の客で繁盛していた。
崋山らは小春日和のこの日、田原藩邸を出て赤坂、青山久保町通り沿いの梅窓院(港区南青山)、五反田(品川区五反田)を経て道に迷いながら目黒不動に向っている。
途中に目指す新富士は『近吾堂版江戸切絵図』の渋谷宮益金王辺図(嘉永四年)の畑中に描かれている「新富士」であろう。
この図は「元富士」にも書き込まれている。
『目黒詣』は巻末に「文政己丑十月十四日渡邊登記印」とあるので、一日の遊楽から自宅に帰った直後に筆をとって描かれたものと思われる。
しかし、誰の求めに応じたかは記されていない。
『目黒詣』は大正二年四月、原本通りのコロタイプ複製本が国華社から刊行され、昭和十六年に『崋山先生錦心図譜』に掲載された。
この原本は切り分けられて、完本としては現存していない。
この肉筆画折帖は、この原本とは別物で、同伴した友人に記念として贈った物だろう。