松村呉春筆「雪月花」自画賛三幅対
左「月」四句
あたヽき雨くも近し春の月
雨雲(あまぐも)にめぐりもあハで夏の月
石山やくれぬ先から秋の月
落かヽる月をもてなすしぐれかな 月渓
中央「雪」
富士山図 呉春 印
右「花」四句
さかぬ日にてる日に来たり山ざくら
鶯やいばらの花を老の宿
しりすえた南瓜(かぼちゃ)も見ゆる庭の萩
雨にぬれて山茶花(さざんか)落るひなたかな 月渓
松村呉春(月渓)の三幅対「雪月花」である。
「雪」をかぶった富士山を中央に据えて、左右幅を「月」と「花」の四季四句と画であしらった。四季の俳句を配してあるので、これで四季を楽しむことができる。「雪月花」は、日本の美しい景物を表す言葉。中央の富士図にはあえて句を添えず、雪をいただく富士山の雄大さだけを強調している。
右幅の「花」四句は、山ざくら(春)、いばら(夏)、萩(秋)、山茶花(冬)の句。山ざくらの句のあたりには、可憐な5つの桜の花びらが散らしてある。
左幅の「月」四句は、春の月(春)、夏の月(夏)、秋の月(秋)、しぐれ(冬)の句。山肌に落ちかかる月のあたりには、「しぐれ」句をあたかも斜めに書いて、降りつける時雨を表した。遊び心が横溢している。
日本人は、だれでもはっきりと四季を持っている。その四つの世界をどう観ずるか。四つの世界をしかと観じたのが、兼好法師である。
春くれて後夏になり、夏はてて秋のくるにはあらず。春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋に通ひ、・・・木の葉の落つるも、まづ落ちてめぐむにはあらず、下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。
春がすぎてから夏になり、夏が行ってから秋が来るのではない。春はそのなかに夏の気をもようし、夏のなかにすでに秋がある。木の葉が落ちるのも、古い葉が落ちて、それから新しい芽が生まれるのではなく、芽が生まれてくるので古い葉が落ちる・・
秋の月は、かぎりなくめでたきものなり。いつとてもかくこそあれとて、思ひわかざらむ人は、無下に心うかるべき事なり・・
秋の月はじつによいものだが、いつだって月は同じだと思い、その区別もわからないような人間は、どうにも情けない人間だ。春の月、夏の月、秋の月、冬の月、みな違う。その風情の違いを知っているのが日本人だ。
江戸中期の絵師。