読書逍遥第176回 『蝸牛庵訪問記 晩年の幸田露伴』(その1)小林勇
『蝸牛庵訪問記 晩年の幸田露伴』(その1)小林勇
あまりに博識なので、周りから近寄りがたい幸田露伴に愛された小林勇。親子よりも大きな歳の差(36歳)のある二人の親密な交際を伝える貴重な書
ここには抜粋した二つ
露伴が認めた「酒字」は表装されて、大事に保管されている
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小林勇 「故人今人・酒のみばなし」より
障子にうつっていた榎の枝の影がいつの間にか消えて、室は薄暗くなっていた。
露伴はそのとき机の傍にひじ枕で横になり、その前に私はあぐらをかいていた。今日もまた長居になった。
階下では家族の人たちが夕飯の支度をしながら、客の分も作るべきかどうかひそかに心を悩ましているにちがいない。
露伴は私が帰ろうとし、もう少し引きとめたいときには、そういう姿勢で挨拶ができないようにすることがあった。
しかし、今日は、私は横になったままの露伴に挨拶をした。そして室を出ようとすると「ちょいとお待ち」といって立ち上がり、室の隅にある用箪笥の中から、紙の巻いたものを取り出し、立ったままさらさらとそれをひらき、「これはどうだい」といった。
何かの記号のようなものであった。「先生、何ですか」ときくと、「酒という字だよ」といい、熱心に説明をはじめた。この字がどのように変わっていったかを考証したのちに、中国の有名な学者がどのように書いたかを露伴自身で模したものである。
巻紙は畳に渦を巻いた。室は暗くなっており、立ったままで露伴は説明を続けていた。巻紙の長さはおよそ三間に及ぶであろう。終ったとき、私はそれをくるくると巻き返した。
巻き終えたときにそれを内ポケットに入れて、「先生、これはぼくが貰います」というか早いか階段を駆け下りた。玄関で靴をはいている私に、二階から露伴の声が聞こえた。「そうかえ、君は酒のみだからそれを持って行くというのかえ。」
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小林勇 『蝸牛庵訪問記』より 昭和19年 (露伴78歳 小林勇41歳)
私は数年前から絵を描くことに熱中していた。熱海(惜櫟荘)へ来てからも私は絵を描いた。先生は日本間の方にいる。私は洋間の絨毯の上に紙をのべて、庭に咲いている椿の花などを描いた。
或る日、銭舜挙の鶏頭の図を模写していると、そこへ先生が来て「お前も物の形を少しは描けるようになった。二人で寄せ書きをしようか。」といった。
そして先生は「君が竹を描き給え。僕が雀をとまらせる。」といった。そのとき私は、竹を描いてからそれに雀をとまらせるのは大変だから、先生が先に鳥を描きなさいといった。
すると先生が「竹があるから雀がとまるので、雀を先に描くのはよろしくない。」といった。この数日間、毎日一緒にいて、なんとなくジリジリしていた私は、そういわれただけで腹をたてて、合作などしたくないといってしまった。先生は簡単に「そうかな」といっただけで自分の室に入ってしまった
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『蝸牛庵訪問記 晩年の幸田露伴』の口絵写真にまつわるこんな微笑ましいエピソードもある。
昭和13年5月。伝通院蝸牛庵にて。先生は写真が嫌いだし、素人の僕が25円の写真機では到底うつらないだろうし、困ったと話した。先生は私の罠にすぐかかった。「何素人だろうが、25円の写真機だろうが、僕が教えてやるからやってみろ」と言って、自分からいろいろのポーズをした。
私はすぐ写真機を出してどのくらいでやるのですか、とか、いい加減なことを尋ねながらパチパチやった。先生は机の前にいつも写真を撮るときにするようないかめしい顔をして座っている。そのポーズが済んでから、本箱の前などにも自分から座ってくれた。その時の写真は出来がやはり悪かったので、4、5日後にもう一度行って私がうつした。その時も先生は自分からいろいろなポーズをしてくれた。縁側に片膝立てているものなどは、先生がとらせた写真の中では珍しいものであろう。