ドイツ五輪ミュンヘン1972年開催記念銀貨10マルク通貨
冨田鋼一郎
有秋小春
(蒹葭堂)40代になると、文人墨客の往来がますます頻繁になり、蒹葭堂を訪ねなくては世も日もあけないというふうになった。上田秋成、山岡浚明、松浦静山、高山彦九郎、海保青陵、浦上玉堂、青木木米、大槻玄沢、司馬江漢らがひっきりなしにやってきた。来ればそこで、古今の蔵書はむろん、顕微鏡やら鉱石やら植物標本やら動物画集に出会えたのである。紀州の吉野屋惣兵衛は蒹葭堂のところで見た重箱に収まった珍奇な貝類コレクションが忘れられなくなったとのちに書いた。
蒹葭堂もよく動いた。安永7年には長崎に遊んで唐人屋敷や通詞たちと交わり、たびたび京都に行って相国寺の大典、蕪村、応挙、売茶翁、皆川淇園、伊藤若冲と話しこんだ。蒹葭堂が京都に来るたび、18世紀の京都藝苑のネットワークが濃くなった。蒹葭堂がそこにかかわるだけで、見えない文脈がたちどころに「見える知の文化」のかたちをあらわしたのであろう。
しかし蒹葭堂自身も学習と探求を怠らない。注目すべきは49歳で小野蘭山の植物学に入門したことだ。入門の誓盟状や、蘭山『本草綱目解』、若水『本草』、松岡玄達『秘物産品目』などへの詳細な書きこみが残っている。
蒹葭堂は産業と文化を切り離さなかったのである。産物と学問と芸術を分断しなかったのだ。それでいて一介の野の人であることを好み、すべての好奇心を自身がサロンの主人公となって周囲にもたらしたのだ。画人であって博物学者であり、考証家であってネットワーカーであり、文筆家であって蔵書家であったのである。
引用:松岡正剛『千夜千冊』所収の中村真一郎著「木村蒹葭堂のサロン」
江戸時代中期の日本の文人・文人画家・本草学者・蔵書家・コレクター。号、蒹葭堂、巽斎(遜斎)。