幸田露伴 短編『太郎坊』
『太郎坊』を読み返した。文庫で僅か12ページの短編だ。
真夏、縁側の硝子戸を開け放って、座敷での夕食どき。働き盛りの中年男が、晩酌の際に思い出のある大事にしていた太郎坊(猪口)を、手を滑らせて割ってしまい、思いがけなく妻に自分の昔話を語りだす。
季節の移ろいにさらされて暮らしていた明治の東京人。余韻のたつぷりの佳編。
以下、冒頭、中頃と末尾の描写力に注目。
[冒頭]
「見るさへまばゆかつた雲の峯は風に吹き崩されて夕方の空が青みわたると、真昼とはいひながら、お日様の傾くに連れて流石に凌ぎよくなる。軈(やが)て五日頃の月は葉桜の繁みから薄く光つて見える。其下を蝙蝠が得たり顔にひらひらと彼方此方へ飛んで居る。
主人は甲斐甲斐しく、はだし尻端折で庭に下り立って蝉も雀も濡れよとばかりに打水をして居る。丈夫づくりの薄禿の男ではあるが其余念のない顔付は、おだやかな波を額に湛えて、今は十分世故(せこ)に長けた身の最早何事にも軽々しくは動かされぬといふやうなありさまを見せて居る。」
[中頃]
「庭は一隅の梧桐の繁みから次第に暮れて来て、ひょろ松檜葉などに滴る水珠(みずたま)は夕立の後かと見紛うばかりで、其濡色と夕月の光の薄く映ずるのは、なんとも云へぬすがすがしさを湛へて居る。
主人は庭を渡る微風(そよかぜ)に袂を吹かせながらおのれの労働が作り出した快い結果を極めて満足しながら味はつて居る。所へ細君は小形の出雲焼の徳利を持つて来た。主人に対(むか)つて坐つて、一つ酌をしながら微笑(えみ)を浮べて、、、、」
「庭には梧桐(きり)を動かしてそよそよと渡る風が、極々静穏(おだやか)な合いの手を弾いて居る。」
[末尾]
「一陣の風はさッと起つて籠洋燈(かごらんぷ)の火を瞬きさせた。夜の涼しさは座敷に満ちた。」
[写真は桐の花]