会津八一筆書「無」銅板
冨田鋼一郎
有秋小春
つきの宮今宵落ちてか○の上 瞬匕亭角上写之 印
「鎌倉海道」や「宰陀稿本」には、「月の宮いつしか落て浮御堂」とある。
本自画賛は、これと異同があり、後に推敲されたものであろう。
明るい月夜に船を湖に出した。浮御堂の近くで何か光るものが落ちたように感じた。
あれがきっと恵心僧都が比叡山横川から眺め、掬い取らせた阿弥陀仏像かもしれない。ありがたいことだ。
月光と浮御堂は切り離せない。肝心な下五の一字が不明。「波の上?」か。土偏か?
芭蕉のもっとも思い出の深い地である近江堅田の地。角上も往時をも偲んでいるのだろう。
鋭角的なクセのある字使いは、角上独特のものである。
滋賀県大津市堅田琵琶湖畔の臨済宗大徳寺派海門山満月寺にある、湖上に突き出た仏堂。近江八景「堅田の落雁」で名高い。「堅田(の)浮御堂」の通称でも知られている。
伝によれば、恵心僧都が比叡山横川から琵琶湖をながめると、毎夜、その光明の赫々(かくかく)たるを怪しみ、網でこれを掬(すく)いとらせると、1寸8分の黄金の阿弥陀仏像であった。
よって魚類殺生供養のために阿弥陀仏像1体を造り、その体内にこれをおさめ、1000体の阿弥陀仏像をも奉安し、浮御堂を創建したという。
荒廃したときもあったが、桜町天皇は禁中の能舞台をたまわり、これを再興した。松尾芭蕉も訪れた。
瞬匕亭・夕陽観・百布軒。堅田本福寺十二世住職。千那の養子。蕉門。権現僧都法印に叙されたが、延享元年に退隠し、京都三条橋東に瞬匕亭を結び、祇空、淡々、大圭らと風流韻事にふけった。寛保三年(1743年)芭蕉五十回忌には義仲寺に芭蕉翁行状碑を建立した。絵をもよくし、角上筆芭蕉画像は広く知られている。