伝渡邉如山筆「水もやや」句短冊
水もやや御威光かざすおぜの関
如山
季語:なし(無季)
あたり一面に靄がかかり、景色が見通せない中、尾瀬の関所のいかめしい門構えだけがくっきりと浮かび上がっている。さすがに将軍様のご威光であることよ。
渡邉如山(幼名:五郎、渡辺崋山の23歳違いの末弟)は、崋山によって五郎6歳時の肖像画がある。崋山の人々を見るまなざしの温かさを伝える佳品である。五郎の愛くるしい表情は後世に長く残ることになった。
私はこれら崋山の私記に、すっかり魅了されてしまった。ここにたえず溢れ、流れている崋山の心底の優しさといったものに打たれ、ひきこまれずにはいなかったのである。武人画家、悲壮な先覚者という、どちらかといえば硬い角ばった崋山像のなかから、たんに洒脱洒落な化成文人というのでもないa tender travellerが立ちあらわれてきて、あの「鎌ヶ谷原」の画中の旅びとのように、しなやかに楽しげに1830年代前後の日本のあちこちを歩きはじめたのである。そしてまさにこのような優しい旅びとであったればこそ、幼弟五郎のぷっくらとした頬をいかにもいとおしみをこめて描くような画家であったればこそ、誰よりも深く切実に同胞の命運を思いやられずにはいられず、日本の危機に対決する雄々しい先覚として死なねばならぬのでもあったことが、了解されたのである。
芳賀徹『やさしい旅人 渡辺崋山』より
<尾瀬の関所>
沼田市と会津若松市を結ぶ道を、群馬側では会津街道、福島側では沼田街道と呼びました。この街道は沼田城から尾瀬沼を経て鶴ヶ城へ至る約180kmの道のり。慶長5(1600)年には、沼田城主真田信幸が戸倉に関所を設けた。 また檜枝岐村にも関所が設けられ、街道を通る人々の改めを行ったとの記述があります。
江戸時代後期の南画家、渡辺崋山の実弟。名は定保、字は叔保、通称は五郎。号は如山・華亭など。渡辺崋山の末弟として江戸田原藩藩邸に生まれる。学問・弁舌に優れた。14歳のとき、崋山の弟子であり親友の椿椿山の画塾・琢華堂に入門し、花鳥草木図の画を中心に教えを受けた。21歳のときには画業によって身を立てていたらしい。周囲から将来を嘱望されたが22歳で夭折し、渡辺家の菩提寺小石川善雄寺に葬られる。法名は「一如院定説季保信士」。崋山「辛巳画稿」にある五郎像は、如山6歳時の肖像である。