小林勇(その6)随筆「万年筆」(『小閑』より)
私は小林勇の身辺エッセイが好きだ。自分の気持ちを正直に書く
終生、ペンと絵筆を手放さなかった。どちらも自己表現の手段だったのだ
鎌倉の自宅で静かに原稿や画紙に向かっているときの心持ちがエッセイにもよく表れている
一人でいても心豊かな時間を過ごした
『小閑』の中からいくつか書き留めておいたものをシリーズでここに載せる
この「万年筆」は、岩波茂雄の人柄の一面をも伝えている。小林勇でしか書けないエピソードの一つ
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私は万年筆を2本持っている。一本は私の随筆集「遠い足音」が日本エッセイスト・クラブ賞に選ばれた時、その賞として贈られたものである。他の一本は岩波茂雄から貰った。
岩波茂雄は昭和十年の四月ヨーロッパへ行き、ずいぶん多くの国々を歩いた。主に美術と山を見たようである。ソビエトロシアへも入り、約一ヵ月近くも歩いたようだ。アメリカを通って十二月帰国した。
岩波は割合に豊富な小遣いを持って行ったらしく、たくさんの土産物買ってきた。それらはたいてい高価な骨董的なものではなく、むしろ実用的なものが多かった。しかも自分のためのものより人に進呈するものが多かったのである。
岩波は付き合いの広い人であったから、その人たちの顔をあれこれと思い浮かべながらたくさんの買い物をしたのだろうと思う。
一種類の量が大変多かった。例えばヘルシンキでネクタイやマフラーの毛糸の色が美しいと見てそれをたくさん買った。デンマークの人形が面白いと言ってたくさん買う。ドイツの安全カミソリの調子が良い、日本のものなど比べ物にならぬ、イギリスの革は丈夫で細工が良いといって、財布をたくさん買うと言う具合である。
帰国後それらの品物を人々にどんどんを送った。私も方々への土産配りを手伝わされた。ロンドンの立派な革製の財布は店員一同へ贈られた。アメリカで買ってきた万年筆パーカーも三、四十本あった。
私はイギリスの洋服地などを貰ったが、それよりも最新式のパーカーが欲しくて仕方がなかった。ねだってみたがくれなかった。二回、三回ねだってもくれない。しかもそんなに万年筆に執着もないつまらぬ奴に平気で与えている。私は腹を立てていた。
その後しばらくたってから、何か厄介なことができて、仙台へ行くように言われた。しかしその要件は、私が断っても良い種類のもののように考えられた。私は行くことは嫌だと何回も断った。
困惑したような不機嫌な顔をしていた岩波は、パーカーの万年筆を持ってきた。そしてこれをやるから行ってくれと言った。私は嬉しかった。
現金な私の量見と、そしてまた万年筆で釣ろうとする岩波の量見もともに忌々しくて、すぐには返事をしなかった。しかし結局私はそれを貰った。
岩波は万年筆でも力いっぱい大きな字を書く人だった。そういう太い大きな字を書くのに適したペンは少なく、昔のパーカーは具合が良かった。私は思い出のあるその万年筆を大切にしていて、めったに使わない。
[太めの万年筆で書いた原稿]
「兒島喜久雄」
(『彼岸花-追憶三十三人』)
小林勇著 昭和43年発行