齋藤松州筆師尾崎紅葉病室俯瞰之図画巻
十千万堂病室俯瞰之図
御馳に伺候して
(三十六年十月二十二日夜十二時) 村上
秋の雨人も通らぬ大路かな 麻知
斜汀 印「斜」「汀」
昼よりの秋雨夜に入りて風さへ吹きそひ、いぶせさいふばかりなき折から、松州氏の席画など御覧じあらせられて、わづかに御悩紛らせ給へつヽありしも、夜深けて少しくまどろませ給ひければ、一同次の間に退き
印風葉火桶に額を集めて
罨法のこんにやく茹る余寒かな 風葉
二十三日午前一時
端座して秋の雨聴く夜伽哉 秋声 印秋声
印鏡華
山史
当夜は人々とヽもにおん枕辺にかしづきたてまつるべかりしが、豊春が宿直の番なりしためまゐりあはさず。をりからの雨に寝もやらで、先生のおん俤見るが如く諸氏のひそめく声も聞くが如くなりし一夜、床すれの御句は此の画帖におんしたヽめあらむとのお言のよし、此事遺憾やる方なしと風葉子が切に求めらるヽまヽ、予て手習せよ手習せよと叱られたまひし子が拙き書の恐多けれど、つヽしんでこヽにしるしたてまつる床ずれや長夜のうつヽ砥(といし)に似たり 鏡花謹識
印紅葉山人
高久佐郡 印高久
罨法(あんぽう):炎症・充血を治療する方法。冷水または温湯で湿布すること。ここではこんにゃくを使い湿布したようだ。
紅葉は、明治36年(1903年)10月30日に亡くなった。享年36歳。この俯瞰図は、その8日前の同月22日夜、病室俯瞰図である。齋藤松州の筆による。新宿横寺町の家の二階、和室二間が夜伽の場である。松州は、この図では紅葉の床の脇に位置し、自らも含めて7名、2部屋の様子を俯瞰で描いた。当時は暖をとるのはもっぱら火鉢。そこらに手あぶり火鉢が置かれている。紅葉門下が毎夜、手分けしながら看病に努めた。この夜は主だった門下が勢ぞろいした。史料的にも貴重である。
これは、一昔前、どこにでも見られた介護・看病の姿だった。しめやかな秋の夜の長雨、火鉢がたくさん使われていた。しかし、これだけで十分な暖をとれていたのだろうか。
『紅葉全集』岩波書店第11巻の口絵に掲載され、同第12巻月報に翻刻あり。
ちなみに『金色夜叉』は、齋藤松州が装丁、挿絵は中澤弘光だった。
1867年生まれの明治の文豪は大勢いる。夏目漱石、幸田露伴、正岡子規、そして尾崎紅葉である、子規は明治35年に、そして紅葉は翌36年、相次いで失った。
小説家。名は徳太郎。号は「縁山」「半可通人」「十千万堂」「花紅治史」など。物語の巧みさと艶麗な文章で、圧倒的人気を獲得、泉鏡花・小栗風葉・柳川春葉・徳田秋声らの逸材を出した。作「多情多恨」「金色夜叉」など。
日本画家。