宝井其角筆「木母寺に」句文幅
みやこの月をかねて
思ひおりぬるを風雨に
さえられて遊行を延べ
しかば今更さそわるる方も
なくて人々のなぐさむる
ところうらやまるるままに
木母寺に歌の会ありけふの月 晋子
季語:けふの月(秋)
かねてからみやこの名月を愛でたいと願っておったのだが、雨風にさえぎられて旅立ちが延び延びとなってとうとう今日まできてしまった。いまさら旅に誘ってくれる友もおらず、人びとが残念なことでしたなと慰めてくれてはするが、返すがえすも口惜しいことだ。上方で名月を愛でることはできなかったが、代わりに墨田堤の木母寺で名月歌会を催した。これはこれで奥床しいものだったことよ。
「焦尾琴」には「甲戊仲秋 先年月見もよほしけるに」と前書あり。
元禄7年(1694年)仲秋の作で、同年10月12日に芭蕉が没っしている。
其角は、当時、江戸にあって上方の都に行きたいと希望していた。延び延びにしていた旅をようやく実行して、10月12日、大阪御堂前花屋仁右衛門方の芭蕉の臨終の床に間に合うことができた。この自筆断簡のおかげで芭蕉と其角にまつわる史的事実が判明する。二人の縁は深いものがあった。師のいまわの際の様子は、其角たちによってかなり詳しく記録されている。
木母寺は、墨田堤の堤外に、今も猶存する梅若祠のこと。徳川時代には、梅若神社と木母寺とは南部を修したものか、祠は木母寺に支配されていたらしい。
句意は頗る単純で、名月の歌が木母寺に催されたと、云うだけでのことだが、血統のある寺と、名月の歌趣とは、好もしい調和があって、奥床しい感じがある。焦尾琴の前書から推察すると、作者が上国の旅中、其俳友が木母寺に催した名月の俳筵に、想いを馳せて詠んだものらしい。
引用:岡倉谷人著『評釈其角の名句』(資文堂書店 昭和3年)
其角にしては比較的平明な句である。「五元集」には句だけが載っていて前書がないが、句の背景がはっきりする。
《木母寺に関する類似句》
うらさぶる日、たどりたどり木母寺にいきて仏念しつつ あはれなる
くまぐまをも見めぐり 日ぐれんとするほとり 鐘も鳴り 鴨なきさわぐ、
この日は秋のなごりなりけり
木母寺の灯に見る秋の行方哉 暁台
ちなみに、蕪村の臨終の様子は、几董によって『から檜葉』に詳しく記されている。
冬鶯むかし王維が垣根哉
うぐひすや何ごそつかす藪の霜
しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
明六ッと吼て氷るや鐘の声 月渓
夜や昼や涙にわかぬ雪ぐもり 梅亭
江戸前期の俳人。号は宝晋齋、晋子など。近江の人。江戸座を開く。蕉門の十哲の一。選「虚栗」「華摘」「枯尾華」など。