賀茂季鷹筆「新田ハ」狂歌賛・岡本豊彦筆「あやめ」画
新田の花屋によき
花菖蒲などきこし
めして入道一○宮(?)
御覧にならせられバ
御供に参りしに数々めさ
れて狂歌よめと仰
られけれバ 即
新田ハにつ田足利両家かや
はなハよし貞あさひ尊氏
新田(しんでん)の花屋の菖蒲ということから、新田(にった)家と足利家を連想した狂歌を即席で吟じた。
新田義貞と足利尊氏が登場。南北朝から室町への乱世時代に想いを馳せる。
はなハ「よし」から義貞を掛ける。あさ(朝)は太陽が高く昇ることから尊氏。
豊彦の描く生き生きとした一輪のあやめに添えられた狂歌。文化・文政の江戸文化爛熟時代の最中、雅趣横溢した佳品である。
また、豊彦が賀茂季鷹と親交があったことがわかる。
前書き中の狂歌を読めと命じた人物名が判読できない。
備中国窪屋郡水江村にある裕福な「酒屋」に生まれる。豊彦25歳の時に、一家を挙げて京都へ上洛することとなり、当時高名であった松村呉春門下に入る。
豊彦は呉春門下で研鑽を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文(松村景文)、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。
また、江戸きっての高名な画家谷文晁、国文学者であり歌人である橘千蔭、狂歌界の泰斗で旗本武士の蜀山人、六樹園こと石川雅望、京都では重鎮画家の岸駒、加茂社家の加茂季鷹、歌人香川景樹らと同席を許され、一筆染めることまで出来たという。
江戸中・後期の歌人、国学者。京の上賀茂神社の社家に生まれる。叔父の季栄の養子となり、有栖川宮職仁親王に仕えて寵遇される。親王死去 (1769)ののち江戸に下り、村田春海、加藤千蔭、三島自寛らと親交を結ぶ。江戸は安永・天明の雅俗文芸が最も華やかだったころで、季鷹は江戸派の歌人達と交友を深めるなかで、国学系統の学問を身につけるとともに、大田南畝を中心とする俗文芸界とも接触を持った。和歌、狂歌双方に通じた季鷹の自在さはこの時期に確率したとみてよい。後半生は本拠を賀茂に移し、京の文人の代表的存在となった。