東ドイツ記念通貨5マルク白銅 未使用ヴァルトブルグ城図
冨田鋼一郎
有秋小春
南枝向暖北枝寒
一種春風有両股 鵬齋老人 印 印
南枝暖に向かい、北枝は寒に
一種の春風両股に有り
冬の最中にかすなか春の訪れを感じる。
すみずみにのこる寒さや梅の花 蕪村
春風や堤長うして家遠し 蕪村
鵬斎は享和2年(1802)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。
文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。
鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているが、良寛より懐素に大きく影響を受けた。
鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。
晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年75。今戸称福寺に葬られる。
引用:『ウィキペディア(Wikipedia)』亀田鵬斎
江戸後期の儒学者。江戸生まれ。井上金峨に師事し、荻生徂徠の古文辞学を排撃。欧陽修などの学に親しんだ。奇行で有名。書は三井親和の学び、一家をなした。