作品・本・人物紹介

漱石『こころ』の抜粋

冨田鋼一郎

第26章の冒頭の一節を紹介。漱石はこのような場面が展開する時の描写がことにうつくしい。

主人公の「私」が卒論をようやく書き上げて、晴れ晴れとした気持ちで先生宅を急いで訪ねる。

書き上げるまでは、頭の中は卒論のことでいっぱいなので周りのことや季節の移り変わりは目に入らない。

それが今では、「広い天地を一目(ひとめ)に見渡」せるようになる。「八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節」になっていた。知らぬ間に季節はこんなに動いていたのか。「萌えるような芽」や「つやつやしい茶褐色の葉」のような細かなところにまで目が行く。俳人としての目を持つ漱石ならではの自然描写の力。

「私」だけでなく、読者も心が浮き立ってのびやかになるのは、細部にまで手を抜かずに筆を運んでいるから。

人は、一つひとつ関門を乗り越えて、新しい自分に出会っていく。その積み重ねが人生となる。

========

「私の自由になったのは、八重桜の散った枝にいつしか青い葉が霞むように伸び始める初夏の季節であった。私は籠を抜け出した小鳥の心をもって、広い天地を一目(ひとめ)に見渡しながら、自由に羽搏(はばた)きをした。私はすぐに先生の家(うち)へ行った。枳殻の垣が黒ずんだ枝の上に萌えるような芽を吹いていたり、柘榴の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引きつけた。私は生まれて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。」

この画は石楠花。

スポンサーリンク

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
記事URLをコピーしました