子漢(蕪村)筆「盧雁図」
冨田鋼一郎
有秋小春

『蕪村 日本人のこころの言葉』
藤田真一著より
「余、三たび泣て日(いわく)、我俳諸西せり、我俳諧西せり」
【語訳】
明和八年、召波が亡くなったとき、わたしは三度声をあげて泣いてこういいました。「わたしの俳諧は西の国へ行ってしまいました。彼が西へ去ってしまいました」。
(『春泥句集』蕪村序)
召波は、文芸に親しむ京の旧家の出だったようです。若くして江戸に行って、服部南郭のもとで漢詩に打ち込み、そこで蕪村と面識ができたとも推測されます。
京にもどってからは、龍草蘆の漢詩結社に身を置き、活発に漢詩を発表しました。そのうち俳諧に転じて、蕪村の門に入ったのです。
一途に勉強するタイプだったようで、あるとき別荘に蕪村を招いて、俳諧の極意について議論の花が咲きました。そこで蕪村が説いたのが、有名な「離俗ノ法」です。俗話を用いつつ俗を離れ、俗を離れつつ同時に俗を活用するという理論です。俳論らしきものを残さなかった蕪村にしては珍しい議論でした。
明和八年暮、その召波が永眠、太祇・鶴英につづいてのことです。
蕪村は喪失感を蓑虫に擬えて、「北吹けば南へぶらり、西吹けば東へぶらり、物と争わざれば風雨に害(そこな)わるるかなしびもなし」とつづっています。
最後に、召波らしい二句を味わいましょう。
○白馬寺に如来うつして今朝の秋
○憂きことを海月に語る海鼠かな