骨董品

渡辺崋山筆「二十四孝図」幅

冨田鋼一郎
H170.0 x W36.5 (cm)

二十四孝(にじゅうしこう)「南蘋筆意 沈丁花・椿梅・水仙」稿付き
中国において後世の範として、孝行が特に優れた人物24人を取り上げた書物。儒教の考えを重んじた歴代中国王朝は、孝行を特に重要な徳目とした。日本にも伝来し、仏閣等の建築物に人物図などが描かれている。また、御伽草子や寺子屋の教材にも採られている。
中国で古来有名な孝子24人の称。虞舜 (ぐしゅん) ・漢の文帝・曽参 (そうしん) ・閔子騫 (びんしけん) ・仲由・董永 (とうえい) ・剡子 (えんし) ・江革・陸績・唐夫人・呉猛・王祥・郭巨・楊香・朱寿昌・庾黔婁 (ゆけんろう) ・老莱子 (ろうらいし) ・蔡順・黄香・姜詩 (きょうし) ・王褒 (おうほう) ・丁蘭・孟宗・黄庭堅のこと。

陸績(りくせき)
6歳の時に袁術(えんじゅつ)という人の所に居た。袁術は陸績のために、おやつとして蜜柑を与えた。陸績はそれを3つ取って帰ろうとすると、袖から蜜柑がこぼれてしまった。袁術は「陸績君は幼いのに泥棒のようなことをするのかね」と言ったところ、陸績は「あまりに見事な蜜柑なので、家に持ち帰って母に食べさせ、恩に報いようと思いました」と言った。袁術はこれを聞いて「幼いのに何という親孝行な子供であろうか、過去現在において稀な心がけである」と褒め称えた。

田眞(でんしん)、田廣(でんこう)、田慶(でんけい)の3兄弟
親亡き後に財産を3等分したが、庭に大きく繁り花を咲かせた木があった。兄弟はこれも3等分しようと徹夜で考えた。夜が明けたので、木を切ろうと庭に出てみると、昨日まで繁っていた木が急に枯れていた。田眞はこれを見て「草木にまで心があって、切られようとして枯れたのであれば、人間ではなおさらである。なんと至らないことであっただろうか」と言い、切らずにおくと、木はまた元のように見事に繁った。

郯子(たんし)
年老いた両親がおり、眼を患っていた。鹿の乳が眼の薬になると聞いた両親は、郯子に欲しいと願った。郯子は鹿の皮を身にまとい、鹿の群れに紛れて入った。そこへ猟師が本物の鹿と間違えて郯子を射ようとしたが、郯子が「私は本物の鹿ではありません。郯子と言いまして、親の願いを叶えたいと思い、こうやって鹿の格好をしているのです」と言うと、猟師は驚いてその訳を聞いた。孝行の志が篤いので射られずに帰り、親孝行をすることが出来た。

蔡順(さいじゅん)
王莽の時代に天下は乱れ、また飢饉が訪れ、食べる物もなかった。蔡順は、母のために桑の実を採り、熟していない物と熟した物に分けていた。その時、盗賊(赤眉の乱の盗賊と思われる)が現れ「何故桑の実を2つに分けるのか」と尋ねたところ、「私には一人の母親がおりますが、熟した物は母親に、熟していない物は自分にと思っていたのです」と言った。盗賊も蔡順の孝行の心を知り、米と牛の足を与えようとしましたが、その米と牛の足を断りました。そして、蔡順の孝行は盗賊たちを感動させて、彼らが赤眉を川の水で洗い、自分の両親に孝行しようとそれぞれの故郷に帰りました。見事に赤眉の盗賊群れを解散させました。

孔子の弟子の閔子騫(びんしけん、子騫は字。諱は損)
幼い時に母を亡くし、父が再婚して異母弟2人ができた。継母は実子2人を愛したが継子の閔子騫を憎んで、冬になると実子には綿入りの着物を与えたが、閔子騫には蘆の穂を入れた着物を与えた。閔子騫が寒さに凍えているのを見て、父が継母と離縁しようと言うと、「母上が去られては、3人の子供は凍えます。私1人が凍えていれば、弟2人は暖かいのでどうか離縁しないで下さい」と言った。継母は、以後は実母のように閔子騫を可愛がったという。

黄香(こうこう)
母を亡くし、残された父によく仕えた。夏の暑い時には枕や椅子を団扇で扇いで冷やし、冬の寒い時には布団が冷たいのを心配し、自分の身体で暖めた。これを知った江夏郡の太守劉護は、高札を立てて黄香の孝行を褒め称えた。

呉猛(ごもう)
8歳であったが、家は貧しく、蚊帳を買う金もなかった。呉猛は考え、自分の着物を親に着せ、自分は裸になって蚊に刺された。それを毎日続けると、蚊も呉猛だけを刺し、親を刺すことはなくなったと言う。楊香(ようこう)
ある時父と山に行った際に虎が躍り出て、今にも2人を食べようとした。楊香は虎が去るように願ったが叶わないと知ると、父が食べられないように「天の神よ、どうか私だけを食べて、父は助けて下さいませ」と懸命に願ったところ、それまで猛り狂っていた虎が尻尾を巻いて逃げてしまい、父子共に命が助かった。

張孝(ちょうこう)と張禮(ちょうれい)の兄弟
飢饉の時に80歳を超えた母を養っていた。木の実を拾いに行ったところ、盗賊が現れて張禮を食おうとした。張禮は「私には一人の年老いた母親がいます。今日はまだ母が食事をしていないので、少しだけ時間を下さい。母に食事をさせればすぐに戻って来ます。もしこの約束を破れば、家に来て一家もろとも殺して下さい」と言って、母親の食事を済ませて盗賊の所に戻って来た。張孝はこれを聞き、走って盗賊の所に行って「私の方が弟より太っています。私を食べて、弟を助けて下さい」と言う。張禮は「これは最初の約束なので、私が食べられます」と言って死を争った。それを見た非道な盗賊も兄弟の孝行心に打たれ、このような兄弟は見たことがないと2人の命を助け、さらに沢山の米と塩を与えた。兄弟はそれらを持って帰り、さらに孝行を尽くした。

丁蘭(ていらん)
丁蘭は、母の死を悲しみ、母の木像を作って生きている時のように尽くした。妻がある夜、母の木像の顔を火で焦がしてしまうと、木像は腫れて血が流れ、2日経つと妻の髪の毛が全てなくなってしまった。妻は何度も詫びをするが一向に変わらないので、丁蘭は驚いて木像を大通りに移し、妻に3年間詫びをさせた。すると、一夜のうちに風雨の音がして、木像は元の場所に戻った。

王裒(おうほう)
父・王義(おうぎ)が時の皇帝の怒りに触れて、罪も無いのに亡くなった。王裒はこれを恨み、皇帝の居る方角には決して向かないで座った。王裒は父の墓の前で礼拝し、傍らにあった柏の木にすがって泣き続けたために、柏の木は枯れてしまうほどであった。母は雷が怖い人であったが、その死後も雷が鳴ると、王裒は母の墓に急ぎ行った。死後の孝行もこれほどであるから、生前の孝行は計り知れないであろう。 王祥(おうしょう)
母を亡くした父は後妻をもらい、王祥は継母からひどい扱いを受けたが恨みに思わず、継母にも大変孝行をした。実母が健在の折、冬の極寒の際に魚が食べたいと言い、王祥は河に行った。しかし、河は氷に覆われ魚はどこにも見えなかった。悲しみのあまり、衣服を脱ぎ氷の上に伏していると、氷が少し融けて魚が2匹出て来た。早速獲って帰って母に与えた。この孝行のためか、王祥が伏した所には毎年、人が伏せた形の氷が出るという。

姜詩(きょうし)
母は、いつも綺麗な川の水を飲みたいと思い、魚を食べたいと言っていた。姜詩と妻は、いつも長い距離を歩き、母に水と魚を与えてよく仕えた。するとある時、姜詩の家のすぐ傍に綺麗な川の水が湧き出て、毎朝その水の中に鯉がいた。姜詩と妻の孝行を感心に思って天が授けたものであろう。

孟宗(もうそう)
幼い時に父を亡くし年老いた母を養っていた。病気になった母は、あれやこれやと食べ物を欲しがった。ある冬に筍が食べたいと言った。孟宗は竹林に行ったが、冬に筍があるはずもない。孟宗は涙ながらに天に祈りながら雪を掘っていた。すると、あっと言う間に雪が融け、土の中から筍が沢山出て来た。孟宗は大変喜び、筍を採って帰り、熱い汁物を作って母に与えると、たちまち病も癒えて天寿を全うした。これも深い孝行の思いが天に通じたのであろう。

郭巨(かくきょ)
家は貧しかったが、母と妻を養っていた。妻に子供が産まれ、3歳になった。郭巨の母は孫を可愛がり、自分の少ない食事を分け与えていた。妻に言うには「我が家は貧しく母の食事さえも足りないのに、孫に分けていてはとても無理だ。夫婦であれば子供はまた授かるだろうが、母親は二度と授からない。ここはこの子を埋めて母を養おう」と。妻は悲嘆に暮れたが、夫の命には従う他なく、3歳の子を連れて埋めに行く。涙を流しながら地面を少し掘ると、黄金の釜が出て、その釜に文字が書いてあった。「孝行な郭巨に天からこれを与える。他人は盗ってはいけない」と。郭巨と妻は黄金の釜を頂き喜び、子供と一緒に家に帰って、さらに母に孝行を尽くした。

董永(とうえい)
幼い時に母と別れ、家は貧しく、いつも雇われ仕事の小銭で日々暮らしていた。父も足が悪かったので、小さな車を作って父を乗せ、田んぼのあぜまで連れて行き、農作業をしていた。父が亡くなると葬式をしたいと思ったが、貧しいのでお金がない。そこで、身売りをしてその金で葬式をした。身請け主の所へ行こうとすると、途中で一人の美女がいた。美女が言うには「私は董永の妻となるべく、絹を織って身請け主に届け許されました」と。そして董永の妻となり、最後に「私は天の織姫ですが、貴方の孝行な心に感じて天が私にお命じになりました」と言うと、天に帰って行った。深い孝行の心が起こしたことであろう。

舜(しゅん)
大変孝行な人であった。父の名前は瞽叟と言い頑固者で、母はひねくれ者、弟は奢った能無しであったが、舜はひたすら孝行を続けた。舜が田を耕しに行くと、象が現れて田を耕し、鳥が来て田の草を取り、耕すのを助けた。その時の天子を堯と言った。堯は舜の孝行な心に感心し、娘を娶らせ天子の座を舜に譲った。これも孝行の心が起こしたことである。

漢の文帝
高祖の子である。名を恒(こう)と言った。母の薄太后に孝行を尽くし、食事の際は自ら毒見をするほどであった。兄弟も沢山いたが、文帝ほど仁義・孝行な皇子はいなかった。そのため、陳平、周勃などの重臣が皇帝に推戴した。孝行とは誰もが知っているが、実際に行うことは難しい。だが、高貴な身分で孝行を行ったことは神の如き志である。であるから、文帝の世は豊かになり、民衆も住みやすくなったのである。

山谷(黄庭堅 こうさんこく)
宋の詩人であり、現在でも詩人の祖といわれている。使用人も多く、妻もいたが、自ら母の大小便の便器を取り、汚れている時は素手で洗って母に返し、朝から夕方まで母に仕えて怠けたことはなかった。一をもって万を知る。その他の孝行は推して知るべしであり、山谷の孝行は天下に知られることとなった。

庾黔婁(ゆけんろう)
南斉の人で、孱陵(せんりょう)県の役人になっていたが、着任して10日も経たないうちに、胸騒ぎがしてならなくなった。父の病気かと思い、役人を辞めて家に帰ると、案の定大病を患っていた。庾黔婁が医師に病状を尋ねると、病人の便を舐めて、甘く苦ければ良かろうと言う。庾黔婁は簡単なことだと言って舐めてみると、味が違ったので父の死を悟り、北斗七星(北極星)に身代わりになることを祈り続けた。

朱壽昌(しゅじゅしょう)
7歳の時に父母が蒸発してしまったので母をよく知らないことを嘆き、50年が経った。ある時、朱壽昌は役人であったが職も妻子も捨て、自らの血でお経を書いて天に祈っていると、秦という所に母がいると告げられ、遂に母に会うことができた。これも志が深いからである。

曾参(そうしん)
孔子の弟子の曾参は、ある時薪を取りに山に行った。母が留守番をしている所に曾参の親友が訪ねて来た。母はもてなしたいと思ったが、曾参は家におらず、元々家が貧しいのでもてなしもできず、「曾参、急いで帰って来てくれ」と指を噛んで願った。曾参は山で薪を拾っていたが、急に胸騒ぎがするので急いで家に帰ってみると、母が事のいきさつを話してくれた。指を噛んで願ったのが遠くの曾参に響いたのは孝行の心で、親子の情が深い証拠である。

唐夫人(とうふじん)
姑の長孫夫人に歯がないのでいつも乳を与え、毎朝姑の髪を梳いて、その他様々なことで仕え、数年が経った。ある時、長孫夫人が患い、もう長くないと思って一族を集めて言うには「私の嫁の唐夫人の、これまでの恩に報いたいが、今死のうとしているのが心残りである。私の子孫たちよ、唐夫人の孝行を真似るならば、必ず将来繁栄するであろう」と言った。このように姑に孝行なのは過去現在珍しいとして、皆褒め称えたと言う。やがて恩が報われ、将来繁栄するのは当たり前のことである。

老莱子(ろうらいし)
両親に仕えた人である。老莱子が70歳になっても、身体に派手な着物を着て、子供の格好になって遊び、子供のように愚かな振る舞いをし、また親のために食事を運ぶ時もわざと転んで子供が泣くように泣いた。これは、老莱子が70歳の年寄りになって若く美しくないところを見せると、息子もこんな歳になったのかと親が悲しむのを避け、また親自身が年寄りになったと悲しまないように、こんな振る舞いをしたのである。

渡辺崋山(わたなべかざん1793-1841)
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ABOUT ME
冨田鋼一郎
冨田鋼一郎
文芸・文化・教育研究家
日本の金融機関勤務後、10年間「学ぶこと、働くこと、生きること」についての講義で大学の教壇に立つ。

各地で「社会と自分」に関するテーマやライフワークの「夏目漱石」「俳諧」「渡辺崋山」などの講演活動を行う。

著書
『偉大なる美しい誤解 漱石に学ぶ生き方のヒント』(郁朋社2018)
『蕪村と崋山 小春に遊ぶ蝶たち』(郁朋社2019)
『四明から蕪村へ』(郁朋社2021)
『論考】蕪村・月居 師弟合作「紫陽花図」について』(Kindle)
『花影東に〜蕪村絵画「渡月橋図」の謎に迫る』(Kindle)
『真の大丈夫 私にとっての漱石さん』(Kindle)
『渡辺崋山 淡彩紀行『目黒詣』』(Kindle)
『夢ハ何々(なぞなぞ)』(Kindle)
『新説 「蕪」とはなにか』(Kindle)
『漱石さんの見る21世紀』(Kindle)
『徹底鑑賞『吾輩は猫である』』(Kindle)
『漱石さんにみる良い師、良い友とは』(Kindle)
『漱石さん詞華集(アンソロジー)』(Kindle)
『曳馬野(ひくまの)の萩』(Kindle)
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