読書逍遥第383回『芭蕉の世界』(第2章) 尾形仂著

『芭蕉の世界』(第2章) 尾形仂著
漢詩文の典拠を明示して、評釈に及ぶ
明快で含蓄豊かな講義
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第2章 『野ざらし』の旅(別名「甲子吟行」)
芭蕉41歳貞享元年(1684)8月、千里を伴い八年ぶりに故郷へ出発、伊賀、大和、吉野、京都、近江、大垣、尾張を回り翌年4月芭蕉庵に戻る
○野ざらしを心に風のしむ身かな
○霧しぐれ富士を見ぬ日ぞおもしろき
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富士川のほとりを行くに、三つばかりなる捨子の、あはれげに泣くあり。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたへず。露ばかりの命待つ間と捨て置きけむ。小萩がもとの秋の風、 こよひや散るらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげて通るに、
○猿を聞く人捨子に秋の風いかに
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中国の詩人たちは、この日本の富士川のほとりに捨てられた捨子の上に吹く秋風のあわれ、悲痛さを何と聞くや、と中国の詩人たちに対して挑んだ句である。
前文の和文脈の美文調も、あえて漢文のスタイルに挑戦しようとしたと思われます。
そこには天和の漢詩文調時代には一途に漢詩文の世界に沈潜していった芭蕉が、今やそれをもう一つ乗り越えようとしている。
言い換えれば、日本の風土の中で、自分の感覚を通して、中国の漢詩人に匹敵するような詩情をつかまえようとしている、そうした姿勢が明らかに出ているように思えます。
その意味では、「猿を聞く人」とは、実はこれまで芭蕉自身でもあったということができるでしょう。
この「秋の風」の一句を成就することが、捨子に対して、詩人としての彼に可能な、ただ一つの救済の道だった。その測り知れない悲しみが、この芭蕉の発見した秋風の中にはこもっています。
自分の皮膚を通してつかんだ日本の風土の実態をもって、かつて自分が読書を通して観念的に捉えた漢詩文の世界に挑もうとする姿勢が、ことに顕著です。
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大垣の木因
大垣に泊りける夜は、木因が家をあるじとす。武蔵野を出づる時、野ざらしを心に おもひて旅立ければ、
○死にもせぬ旅寝の果てよ秋の暮
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この大垣あたりを境として、前半後半に分かれ、新しい風狂の境地へとつき抜けていきます
木因の案内で名古屋に赴く途中
○狂句木枯の身は竹斎に似たるかな
この句は、名古屋の連衆(れんじゅ)を前に挨拶として披露され、発句として『冬の日』五歌仙が巻かれることになる。
芭蕉風の展開史上、この句は誠に記念すべき一句。
