読書逍遥第304回『ニューヨーク散歩』(その5最後) 司馬遼太郎著
冨田鋼一郎
有秋小春
見るだけの旅から、共感する旅へ
旅を深める新しいガイド
激しい変貌を遂げるインド
38年も前の本だが、「五千年にわたる精神史のありのままの堆積」するインドなのだから、インドを知る努力は無駄ではないはずだ
(はじめに)
私の手に負えなかったのはと、インドの首相だったネルーは書いている。インドの空間的な広さでも、その多様性でもなく、インドの魂の深さだった、と。(『インドの発見』)
インド人であるネルーでさえ見きわめるのにたじろいだインドの魂を、異国人である私たちが、どうして容易に理解できようか。
そこにあるのは遠くインダス文明にさかのぼる五千年にわたる精神史のありのままの堆積といってもいいからである。
じっさい、インドは歴史のすべてを何ひとつ排除することなく、あるがままに受け入れてきた。ヒマラヤの峰々に比することもできることも高貴な、深淵な哲学、神学から(仏教はそこから流れ出したのだ)想像を絶する貧困や矛盾や汚物に至るまで。
それはそこなしの寛容といってもいい。この世に存在するものはすべて存在理由(レゾン・デートル)を持っている、とインドは考えるのだ。
インドを旅する難しさはそこにある。だが、同時に、インドへと私たちを引きつける旅への誘いもそこにある。その衝撃と感動、内外の旅人のそうしたインド体験を中心に私は本巻を編んだ。
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三島由紀夫「インド通信」末文
今のところ、あらゆる面で、インドは出遅れているように見える。しかし、これだけの国の、これだけの旧套墨守はただごとではない。
インドはふたたび、現代世界の急ぎ足のやみくもな高度の技術化の果てに、新しい精神的価値を与えるべく用意しているのかもしれない。
ベナレスの水浴場で一心に祈りつつ水浴しているアメリカ青年の姿からも、私はそれを感じたのであった。