読書逍遥第368回『続芭蕉・蕪村』(正続) 尾形仂(つとむ)著
『続芭蕉・蕪村』(正続) 尾形仂(つとむ)著
快刀乱麻を断つのは独壇場
数ある俳諧評論の中で、豊富な典拠を示しながら論じる手際の良さ
びっくりしたり、疑問を抱いたり、納得したり、著者のいる探索の現場に招き入れられたような感覚に陥る
ワクワクしながら多く教えられているのが尾形仂先生の著作だ
例えば、蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」の鑑賞を抜粋してみる
日本の大河は、長江とは比べものにならない短い急流だ
昔、日本を訪れた英国人が「日本の川は川でなく、滝の流れのようだ」と感想を述べたという
読みながら、能登半島の地震・豪雨の複合災害で被災された人々のことが脳裏を離れない
日本は、いつの世も自然災害の猛威にさらされている
@@@@
○五月雨や大河を前に家二軒 蕪村
平野部を流れる日本の大きな河川の多くは、ふだんは両岸を土手に囲まれた川原の真ん中を幅の狭い水流が流れているだけですが、大雨が続くとにわかに増水して河原を埋め尽くし、ときには堤防の決壊を招くことさえあります。
「大河を前に家二軒」という構図は、「五月雨や」という季節感に覆われると、にわかに危機的な色合いに包まれます。
また、「大河を前に家二軒」という構造を配置されることで、上五の「五月雨」はただの長雨というだけでなしに、梅雨末期の凶暴な相貌を帯びて迫ってきます。
その上下の緊張関係の中からは、日本の風土のこの季節に展開される緊迫したドラマが迫真性を伴って浮かんでくるでしょう。
特にこの句では「家二軒」と強く言い切った具体的数字が利いています。
ニ軒だからこそ、互いに身を寄せ合うようにして増水の不安に耐えている、あるいはハラハラしながらそれを遠くから見守っている、人間同士の複雑な心理的葛藤も生きてくるわけで、一軒でも三軒でもこうはいきません。
この句は、ある一つの絵画的構図を最小限度の簡潔な筆づかいで提示しながら、時間の推移の中で、刻々と増水する不安感や、それに伴う人々の動きなど、もしこれを現代のテレビの報道番組で取り上げたら数時間分にも相当するような、人間生活の中の劇的な様相を緊迫感とともに伝えているといえます。
わずか十七音節の短い詩形で、そうした複雑な内容の伝達を可能にしているのも、俳句が、物事をその極点で捉えた最小限の要件を、空白を孕んだ暗示的表現によって読者の前に提示し、読者の想像力を刺激してその参加を求める方法をとっているからに他なりません。