読書逍遥第364回『書物』(その3) 森銑三・柴田宵曲著
『書物』(その3) 森銑三・柴田宵曲著
「良書とは何ぞや」
文は人なりという。然らば書もまた人なりといってよい。書物は著者の分身に外ならぬ。
誠実な心の持ち主にして始めて良書は生み出される。然らば、書物の問題は直ちに、その著者の問題となる。
良書を知ろうと心懸くる人は、まずよき著述家を知ることを心懸くべきである。
己に適応した良書を知り、その著者の他の叙述も漁り読み、ひいてはその著者の推奨するところの同時代の書物、または過去の書物を読む。
かくして、その人の読書生活は際限なく深められ、かつ拡められていくであろう。それによってまた方面を異にする書物に対しても、良否の識別が容易に下されるようにもなっていくであろう。
要するに、良書を知るというのも、鉱山家が鉱脈を探し回るのに似ているかもしれない。
そういうとは頼りなく聞こえるかもしれぬが、私らもまた誠実な心を以て、常に良書を知ろうと心がくべきである。
そして良書を求める心が切実ならば、それに対して必ずや感応するところがあるであろう。
誠実な心から生まれた書物なら、虚心坦懐にその書に対するうちに、著者の心持ちが、しっとりと読者の心に受け入れられてくるはずである。
そうした感得力を欠いているようでは、まだまだ一人前の読書家などとはいわれぬであろう。
既成の先入観念に捉えられずに、己を虚しうして書物に対して、おのずから感得せられてくる気持ちを重んずべきである。
そして良いものに対して直ちにそれが良いものと感じられるように、心が敏活な働きを開始するように、常に己を修練せしめてゆくべきである。
そうした気持ちで書物に対するようになって、読書は初めて己を養ってくれることにもなるであろう。
そしてまた読書によって養え得た直感力が実生活の上にも応用せられるようにもなるならば、その人の読書生活は、ますます大きな意義を有することにもなってゆくであろう。
ここまで書いた後で、尾上松助の芸談というものを読んだら、人間は何をするのにイキが良くなければダメですよ、という言葉があったのに、なるほどと感心した。
このイキという言葉は、打てば響くような働きを指すものと解してよいであろうか。
舞台の上で、相手と芝居をする役者にして、そのイキが合わなかったら、相手の芸をも殺してしまう。常に精神の溌剌たる状態にあることを要する。
ただし、これは芸道ばかりでもない。移して、読書の上にもいうことが出来よう。
書物そのものは死物であるが、その奥にある著者その人に直面し、その息吹の感ぜられる読書家にして、始めて真の読書家の資格ありと言うべきである。
読書家もイキが良くなくてはならない。イキの良い読書家にして、始めて良書か非良書かが識別し得られるであろう。