読書逍遥第171回 『働き方全史』ジェームス・スーズマン著
冨田鋼一郎
有秋小春
江戸俳句といえば、芭蕉と蕪村(それと一茶くらい)しか語られない
そんな中、ユニークな一冊なのが本書
著者は元禄俳書を読み込み、無名作家の手になった句のみを選んで評釈する
戦時中に書いたにもかかわらず時局を全く感じさせない滋味あふれる好著
俳句の鑑賞とはこのようにすることだと教えられた
☆☆☆☆
秋の句からニ例
⭕️はつ秋や青葉に見ゆる風の色 巨扇
句としては、むしろ平凡な部に属するであろう。
ただ秋の到るということを著しく感じ、著しく表す習慣のついてる人は、この種の平凡な趣を見逃す虜(おそれ)があるのである。
秋になったというものの、赫々たる太陽は依然として天地に充ちている。
木々の梢も夏のままに青葉が茂っている。その青葉を渡る風に、自らなる秋を感ずる。
「風の色」という言葉は、ちょっと説明しにくい。青葉を吹く風に秋を感じ得る者だけが、この「風の色」の如何を解し得るに過ぎない。
⭕️七夕や庭に水打日のあまり りん
まだ日の暮れぬうちである。
梅雨の明けきらぬ新暦の七夕では、古来の情趣は殆ど失われたに近いが、「文月や六日も常の夜には似ず」といった古人の感情からいえば、七夕の日の暮れるのは、今よりはるかに待ち遠しかったであろう。
新涼の気が動いてるとはいうものの、昼の間はなかなか暑い。その日影がまだ残っている庭に水を打って、ニ星の相見るべき夜を待つのである。
七夕の句はニ星に重きを置きすぎるため、動(やや)もすれば擬人的な弊に陥りやすい。
七夕に関する行事も、人間扱いにしてある点が面白いのであるが、あまり度々繰り返されては、句として成功しにくい憾みがある。
この句は「七夕や」といっただけで、格別七夕らしい何者も点ぜぬところが面白い。