読書逍遥第350回『白河・会津のみち 赤坂散歩』(その2) 司馬遼太郎著
『白河・会津のみち 赤坂散歩』(その2) 司馬遼太郎著
山下りん(1857-1939)
日本人初のイコン画家として知られる。日本で最も早期の女性洋画家の一人
福島県白河の聖堂の壁に掛かる山下りんのイコンからロシアの文明史的把握の記述におよぶ
きっとロシア(プーチン)にとってキウイ(ウクライナ)は、ロシアになくてはならない核心的地域なのだろう
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いまは、世界の多くの部分が、一つのルールで動いている。ただソ連だけが、印象として”最後の外国”のようである。
その印象のもとは、ソ連における閉鎖性、史上最大の軍事力、さらには社会主義的価値観と岩牢ような官僚制といったようなものがあげられるかもしれない。
ソ連以前のものとしては、ロシア正教も、右の要素の一つとして考えていいかと思える。
ロシア正教は、いうまでもなく、東方のビザンチンを祖とするギリシャ正教のことである。この非西欧的なキリスト教が、ロシアそのものをユニークにしたことはたしかである。
ローマ・カトリックは、ローマの西隣のポーランドまでがそうである。西欧というローマ・カトリックの圏内では、ほぼ12、13世紀ごろから、思想、科学、技術、法制、さらには芸術や生活文化にいたるまで共有されてきた。
ロシアは、ギリシャ正教(ロシア正教)であったがために、ほとんど西欧と歴史を共有することがなかった。
ところで、ロシア地帯では、長いあいだ国家というものがなかった。
ロシアという広大な地域に、ほとんど点のような規模でキエフ国家ができるのは、やっと9世紀になってからである。そこへ入ったのは、東方のギリシャ正教で、もしそれがローマ・カトリックだったとすれば、世界史はべつな方向に進んだろう。
11世紀のキエフに、ロシア最古の聖堂である聖ソフィア寺院が作られる。ネギ坊主の塔をあげたビザンティン様式の寺院で、この宗旨の特徴の一つと言えるイコンがすでに用いられていた。
その後、不幸な時代が来る。13世紀、モンゴル帝国の版図が西方に伸び、キエフをも含めてロシアはキプチャック汗国としてモンゴル人の支配下に入るのである。このことも、ロシアをいっそうユニークにした。
“韃靼(タタール)のくびき”といわれたこの時代が、なんと259年も続く。
ロシアが、モンゴル人によって支配されているあいだに、西欧は現代への支度をすべて整えてしまうのである。
この時期に西欧を変えた最大なものは、14世紀にイタリアを中心として興ったルネサンスだった。
この思想と様式はたちまちローマ・カトリックで共有された。美術、建築哲学、文学、さらにはキリスト教学までが、人間中心主義になっていく。
ルネサンスによって、人間の創造精神が教会の羽交(はがい)の中から解放されるのだが、皮肉なことに、教会の絵画や彫刻までルネサンス風になり、例えば、イエスも聖母マリア、あるいは聖人たちも、みずみずしい肉体を回復した。
ロシアは、そういうことから遮断されていた。
19世紀に入って、ロシア正教では、イコンは昔ながらの絵描き方で制作され続けた。画面は平面的だった。
イエスも聖母、あるいは聖人たちも、影のような聖性だけが抽出され、人間的であることを極度に抑えられていた。