読書逍遥第339回『南蛮の道』(その11 終わり) 司馬遼太郎著
『南蛮の道』(その11 終わり) 司馬遼太郎著
ポルトガル西南端サグレス岬において、エンリケ航海王子に想いを馳せたスペイン・ポルトガル旅は、余情たっぷりに終わる
司馬遼太郎から教わったのは、ヨーロッパ文明(ほかのあらゆる文明も)を、人類が作り上げてきたものとして愛情をもってみること
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エンリケは、ラゴスを中心とするサグレス岬付近の住民を訓練し、少しずつ航海に習熟させた。
ローマが一日にしてならなかったように、大航海時代は一挙にヴァスコ・ダ・ガマの大航海(1497)でもって始まったわけではなく、助走が長かった。
エンリケは、とりあえずアフリカ大陸の西海岸がどうなっているかを知りたかった。
2人の騎士に小舟を与え、「アフリカへ行け。その西岸をつたって、ゆけるところまで南下してみよ」と船出させたのである。
彼らは火山島に漂着した。そこはリスボンの南西海上900キロの諸島で、現在もポルトガル領であるマディラ諸島である。
15世紀初頭、つまりエンリケまでのヨーロッパ人は、概して大海を恐れる民であった。
彼らは地中海世界のそと、地図ではほんの少しし西へ行っただけのアフリカ西海岸のボハドル岬(ブジャドール岬)から向こうは世界の涯で、海が煮えたぎり、滝のように落下している、と信じていた。
エンリケの”生徒”たちが、その岬を越えることに成功したのは、マディラ諸島の発見から15年も経っている。
巣立とうとする雛が他の枝へ移ろうとして力及ばずして草の上に落ち、落ちては羽をバタつかして空を目指しているのに似ていた。
大地はせまくなっている。それでもイベリア半島を特徴づけるテーブル状の台地(メセタ)が続き、山はない。
日本では、山が海に沈んだところが岬だが、ここではまな板のような大地が海に向かっている。どの断崖もビスケットを割ったたような断面である。
岬がせまくなるままに進むと、やがてその先に、城門があった。海への門のようにも見える。
ここでは陸でありながら、甲板の上にいるように潮を知ることができる。目の前の海には、沿岸に沿ってゆるやかに流れる沿岸流がうごき、沖には別の潮流が流れている。
さらに、ここにあっては風に活力がある。生き物のように絶えず変化しており、その都度、風をどう使えばいいかを、帆を張ることなく体でさとることができる。
サグレス岬は、蝸牛の角のように、もう一つの岬を突き出している。サン・ヴィンセンテ岬という。
目の前にながながと断崖を露出して海へ伸びているのだが、歩くのにはやや距離があるため、私どもはマイクロバスで行ってみた。
その岬の突角にも城壁があり、その上、近代的な灯台もある。
須田克太画伯は空や海を見ていたが、やがてこどものように退屈してきたのか、うつむいてあちこちの地面を移動して歩き、小石をひろい始めた。
やがて一つの小石をかかげ、
「シバサン、青天の霹靂とはこのことです」と叫んだ。
見ると、鋭く菱形に割れた、扁平の、クリーム色の小石だった。しかし、小石にすぎない。
「グレコそっくりです」
画伯の大きな頭の内部には、私どものうかがい知れぬ感覚世界が広がってるのかと思われた。
さらに画伯はひろい続けてポケットがいっぱいになったころ、こんどはもとの地面にもどすべく一つずつ落とし始めた。
「ヨーロッパが減るといけないから」というのが理由だった。画伯の実感は私にも伝わった。
16世紀以来、私どもの文化を刺激しつづけてくれたヨーロッパは、それが尽きるサグレス岬まで来てみると、もう地面がこれっぽちしかないのかというかぼそい思いがしてくる。
私は、こどものころからアジアが好きだった。そういう私でさえ、ヨーロッパへの愛情といとおしみが強い。
私ども非ヨーロッパ人は、平衡を持った尊敬を込めて、この大陸に興り、いま沸騰期を過ぎつつある文明を大切にあつかわなければならないが、画伯にもその気分が強いのであろう。
ともかくも、画伯は小石を捨てた。私どもの旅は、小石がザグレス岬のせまい地面に落ちたときに終わった。
(了)