読書逍遥第337回『南蛮の道』(その9) 司馬遼太郎著
『南蛮の道』(その9) 司馬遼太郎著
学院としての大航海時代ポルトガルの宮廷
エンリケ航海王子
地図のない時代に大海に乗り出した人々の勇気に思いを馳せる
ポルトガルの宮廷
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大航海時代の前夜、ポルトガルの宮廷は一つの学院のようであった。
ジョアン一世(エンリケの父)は、どちらかといえば、舞台の暗がりに座っている。イギリスから輿入れしてきた聡明で、弾むような知識好奇心に富んだ王妃フィリッパが、この空気の作り手であった。
彼女のよき遺伝を受けた3人の息子たちのうち、長男は法律の知識を、次男は地理の知識を、三男エンリケ航海王子は天文、航海、造船に関する知識を吸収し、集積した。
この息子たちが少年だったころまでは、ヨーロッパ人は海を恐れ、その知識も乏しかった。
北海と地中海で、磯せせりのように沿岸の陸見(やまみ)をしながらゆく沿岸航海しか知らなかった。地中海に面した国々では、極端にいえば人が使用できる海は地中海だけで、それ以外の海洋世界は、怪奇な異変に満ちたいわば魔海だった。
魔海はイスラム教徒の世界であり、かれらは古くから帆走していた。
しかし多分に陸封的な文明だったローマ人の末裔であるキリスト教徒たちは、イタリア半島に多くの海の貿易業を繁栄させつつも、自ら船を造ってはるかな大西洋やインド洋までゆく勇気はもたなかった。
「かれら異教徒たちがやれることを、我々キリスト教徒がやれないはずはない」という思想を語り合う場所こそ、ジョアン一世の宮廷であった。
イベリア半島の対岸の北アフリカは、八世紀以来、イスラムの支配圏だった。
その北アフリカに、蟹のように目が突き出ているのがセウタの海港であった。
岬に保護されたこの海港は、イベリア半島の突角であるジブラルタルと向かい合っており、両大陸の突角同士が、狭い海峡を隔てて、地中海の西の水門をなしていた。
「セウタを攻撃しよう」という案は、リスボンの海商の要求によって宮廷の話題になった。
セウタ港は、リスボンの海商の船を襲うムーア(イスラム)人海賊の巣窟でもあった。
海賊を覆滅させる事は海商の利益だったし、またイスラム教徒を襲って殺すことは、宮廷や騎士にとってローマの法王睨下を喜ばせる正義の十字軍運動だったのである。
ついでながらイデオロギー的正義という恐ろしいものをこの地上で発明したのは、やっつけられる側のイスラムではなく、十字軍以来のキリスト教の側であった。
ラゴス、それはサグレスの突角に最も近い港町である。ラゴスには、重大な歴史がある。
1415年7月27日まだ若かったエンリケ航海王子とその2人の兄の王子を含めた艦隊と陸兵は、この入江に集結した。
ラゴス入江から北アフリカのセウタまでの大西洋の海は、直線で約300キロに過ぎない。イスラム人なら何でもないこの渡海が、ポルトガル人にとっては、カタツムリが溝を飛び越えるほどの奇跡的な勇気を要した。悲鳴をあげるようにして渡海し、結局セウタ岬にゆきついた。
もっとも、小国のポルトガルの力では、セウタの占領を維持できなかった。
しかし渡海の勇気を得た。あと必要なのは、航海・造船の技術を、非ヨーロッパ人から学ぶことだけだった。