読書逍遥第333回『南蛮の道』(その5) 司馬遼太郎著
『南蛮の道』(その5) 司馬遼太郎著
ポルトガルはいうまでもなく、海に依存する国である
海の国であることが始まったのは、周知のようにエンリケ航海王子(1394-1460)からである。
ポルトガルにとってスペインは、後門をうかがう狼のようなものであった。
このためエンリケの父ジョアン一世は、同盟を英国に求め条約を結んだ。以後六百年、こんにちまで一度も破られることがなく、外交史上、奇跡の条約とされる。14世紀末のこの条約は、16世紀起工のジェロニモス修道院よりも古いのである。
私がポルトガルに来たのは、信じがたいほどの勇気を持って、それまでただむなしく水をたたえていた海洋というものを、世界史に組み入れてしまった人々の跡を見るためであったが、この大膨張を、ただ一人に象徴させるとすれば、エンリケ以外にない。
エンリケは航海王子とのちに呼ばれながら、海洋経験は若いころニ度ばかりアフリカに渡っただけのことで、自ら操船したことは一度もなかった。
彼は海洋教育の設計者であり、航海策の立案者であり、推進者であった。彼の偉大さは、むしろ海に出なかった”航海者”であるというところにある。
彼の死後、船隊を率いてインド洋に出て行ったヴァスコ・ダ・ガマ(1469?-1524)は、エンリケの結果に過ぎない。
さらにいえば、ガマの大航海の結果が、やがて日本に対する鉄砲の伝来となり、続いてフランシスコ・ザヴィエルの渡来になる。
また日本南蛮文化の時代を招来し、そのうえ南蛮風の築城法が加味された大坂城が出現する契機ともなった。
瀬戸内海を経てその奥座敷ともいうべき大坂湾に入ってくる南蛮船に対し、貿易家である秀吉が日本の国家的威容を見せようとしたのが、巨大建造物の造営の一目的だったことは、誰もが想像できる。
ついでながら、その秀吉が、徳川家康を東海の地から関東に移封するとき、関八州を統べる地を江戸に置くように、と教えた。
江戸という海辺の小邑(しょうゆう)については、家康に知識がなく、秀吉のほうにあった。
それまでの日本は、奈良や京都だけでなく、国々の中心も内陸にあった。以後、伝統をやぶって海岸に出た。
たとえば漁村にすぎなかった広島が大藩の首都になり、博多港の後背地に設けられた福岡城下の設定も同様の”法則”による。尾張における名古屋、奥州における仙台など、すべてその地の首都としての城が築かれるまで無名の臨海地にすぎなかった。