中村屋サロン美術館の面々
冨田鋼一郎
有秋小春
どのページの歌をみても、親父の面影、息遣いを感じる
2週間で便箋一枚に歌が埋まる(最初は鉛筆で、途中1988年からワープロになる)
びっしりと短歌が書かれた便箋を手渡されたときに、どうして感想を伝えることが出来なかったのか
毎日一首のペースを50年も続けたことに驚き
80歳当時の1995年からいくつか
○ 「阪神大震災」
火の手あがるテレビ画面の中心に
通信不通のわが支社の見ゆ
(1995.1)
○同窓生ら持病もやむなき傘寿にて
一病息災言いつつ別れぬ
(1995.2)
○ 「オフィスの窓」
帰り支度終えて眺むる窓越しに
沈みゆく日の大き火の玉
(1995.2 )
(注: まだ、大手町に勤務していた)
○ 「真夏の庭」
蜻蛉二つ余所者ならずこの池に
生まれ睦みて卵産むなる
(1995.8)
○ 「柿」
柿の実の今年は生り年枝たわみ
一木千個の輝く鈴生り
(1995.11)
○ 刈り上げし芝笹焚くにパチパチと
音心地良し小春日和に
(1995.11)