第97回 『そして、自分への旅』森本哲郎著
冨田鋼一郎
有秋小春
森本哲郎氏の著作から、ものの見方、感じ方、考え方をどれだけ教えられたか
これもその一つ
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火鉢 軒端 下駄 濡れ縁 枝折り戸 井戸 扇 簾 水車 蚊帳 露店 祭り 手拭い 障子 手桶 提灯 路地 砧 屏風 野路 鐘 など
かつて日本人の暮らしと共にあった生活や風物をたどり、広く日本的なもの、日本人の不変の情感にせまる
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ときどき私は「文明」とはなんなのだろうと思う。
その一番いい定義は、「いっさいを間接的なものにする装置」ということではなかろうか。
そう、文明の第一歩は「雨露(うろ)をしのぐ」ことから始まったのである。
「雨露をしのぐ」とは雨露を間接的なものにすることである。それは大いに感謝すべきことであり、少しも悲しむべきことではない。
だが、「文明」はそうした間接化の道を、ただひたすら無際限に推し進めることになった。
そのあげく、自然の声は十重二十重(とえはたえ)に遮断され、それに代わって、人工的な騒音が生活の全領域を支配するようになった。「文明」は、私たちから自然の声を奪ったのである。
日本人はむかしから音に大変敏かった。どれほど小さな自然の声も聞きもらさなかった。どんな詩人もその声に耳を傾け、そしてうたった。
ホトトギスのただ一声を聞くために、夜どおし起きていた。雨漏りを受ける盥に落ちる雨の音に聞き入っていた。耳もとを過ぎる昼の蚊の羽音の弱さで、忍び寄る秋を知った。岩にしみ入るような蝉の声の中に静寂を感じ取った。確かな風にも葉ずれの音を立てる竹をこよなく愛した。
○わが屋戸のいささ群竹吹く風の
音のかそけきこの夕かも 大伴家持
今から千ニ百年もむかし、奈良朝の歌人がこううたっているのを思うとき、私はいまさらのように、そのかそけき音のなかに日本人の魂をきく思いがするのである。