読書逍遥第323回『自由からの逃走』1941 エーリッヒ・フロム(1900-1980)著
『自由からの逃走』1941 エーリッヒ・フロム(1900-1980)著
本箱の隅から取り出した。1967.2.27読了とある
大学二年から三年にかけて、背伸びしながら読んだ
裏表紙見返しには、鉛筆で感想が書いてある
レポートのようにうまくまとめたつもりだろうが、人生体験がないので、上滑りの言葉が並ぶ
五十年余を経て、いま読み直してみる
人類の歴史とは、血と汗で勝ち取ってきた自由の歴史であるといわれる
それではファシズムが荒れ狂った1940年代時代、民主ドイツでなぜ人々は率先して自由をかなぐり捨てたのか
いまだに独裁国家がはびこり、民主国家で構成される世界にはなっていない
[近代人にとっての自由の意味について]
@@
もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。
もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とは何ものであろうか。
もしいまを尊ばないならばーーいつというときがあろうか
(タルムード モーゼの律法)
@@@@
人間に内在する不可侵の権利ほどに不変なものはない。
(トマス・ジェファーソン)
@@@@
われわれは汝を天上のものでも地上のものでもなく、死すべきものでも不死のものでもない存在として創造した。
それは汝が自分の意思と名誉に従って、自由に、汝自身の創造者であり、形成者であることができるようにである。
われわれは汝だけに、自分の自由意志による成長と発展とを与えた。
汝は、みずからのうちに宇宙的生命の胚珠を持っている。
(ピコ・デラ・ミランドラ イタリアルネサンス期哲学者)
☆☆☆
近代人は、個人に安定を与えると同時に、かれを束縛していた前個人的社会の絆からは自由になったが、個人的自我の実現、すなわち個人の知的な、感情的な、また感覚的な諸能力の表現という積極的な意味における自由は、まだ獲得していない。
自由は近代人に独立と合理性とを与えたが、一方個人を孤独におとしいれ、そのため個人を不安な無力なものにした。
この孤独は耐えがたいものである。かれは自由の重荷から逃れて新しい依存と従属を求めるか、あるいは人間の独自性と個性とに基づいた積極的な自由の完全な実現に進むかの二者選択に迫られる。
なぜ率先して自由から逃避しようとするのか